連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「勇気や信念」としか、いまのところいいえないもの

(この章は昨二〇一三年十一月十三日に書き上げていたものです)

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 二〇一〇年十一月の『「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない』から、まるまる三年間も私はこの最先端=亀山郁夫批判の文章をほとんど公開してきませんでしたが、公開しないだけで書きつづけてはいました。一日たりとこの問題について考えない日はありませんでした。いくつかの文章はとっくに出来上がっていて、単純にそのまま公開すればよかったのかもしれません。しかし、何か引っ掛かりのようなものがあって、そうしなかったんですね。くだらない引っ掛かりなのかもしれませんが、ともあれ、私には引っ掛かったわけです。
 『「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない』を公開した後、翌二〇一一年は夏ごろまで、私は平野卿子による新訳『トーニオ・クレーガー』(河出文庫)批判の文章を書いていました。この翻訳には最先端=亀山郁夫の翻訳と同じ問題があると思ったからです。そうして、秋からは『なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?』を書いていて、途中で投げ出し、自分でも納得のいかないまま翌二〇一二年夏に無理やりこれを結びにしたんですね。この二〇一二年の上半期には『さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!』も書いていて、これも中途で私自身がうんざりして、やはり夏にこれを結びにしました。そうして、その間にも『翻訳の品格』(藤井一行・中島章利)を著者のひとりである中島さんから贈っていただいたので、それについて書こうとしていました。ところが、この本のある箇所について疑問が生じ、それについてあれこれ書こうとしているうちにどんどん時間がたってしまったんですね。
 右の「ある箇所」については今年(二〇一三年二月)に萩原俊治氏が指摘されています。

 もうひとつの同意できない箇所を挙げると、これは誤訳そのものに関わる箇所だ。藤井氏が『カラマーゾフの兄弟』の「長老ゾシマの死の場面」の訳を誤訳であると述べているところだ。
(萩原俊治「『翻訳の品格』」 ── 「こころなきみにも」http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20130211/1360578857

 この箇所ではロシア語 земля (大地・床)に対する訳語が問題にされています。これについて、私は昨二〇一二年、藤井一行氏にメールで問い合わせたのでした(藤井一行氏からの回答はありませんでしたが、回答のないことについては、私に納得できる正当な理由が中島章利氏から伝えられました)。私の問い合わせを必要な部分だけ(不必要な部分は省いて)引用してみます。

 藤井一行さま

 お訊ねしたいのは、『翻訳の品格』52ページからの「長老ゾシマの死の場面」についてです(藤井さんは米川訳を中心に論じられていますが、ここで私は原卓也訳の読者としてお訊ねします)。

 だが、長老は苦しみながら、なおも微笑をうかべて一同をながめやり、静かに肘掛椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、大地にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように大地に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引きとったのだった。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 右の「床」、「大地」について藤井さんは疑問を呈していらっしゃいます。

 まず、米川訳の傍線部分の「土」、「大地」という訳語に注目されたい。私はこの部分を読んでいて、情景をイメージできなかった。床とは地面そのものなのか? 長老は室内にいるのではなかったか? それなのになぜ「土」に顔をすりつけたり、「大地」に接吻したりになるのか? そもそも冒頭には、「床へすべり落ちて」とあるではないか。「床へすべり落ち」た長老がどうして「土」や「大地」に口づけすることになるのだろうか? そこの「床」は木でなくて土で被われているのだろうか? 文学作品ではそうした細部がとても気になる。その場面を仮に映画化するとしたら、「床」はどんなセットになるのだろうか? あるドストエーフスキー研究者は、一種の比喩ではないかと私に語った。気にしだすときりがない。私はその疑問にこだわってみた。
 問題は「土」や「大地」と訳されたロシア語 земля (ゼムリャー)の語義である。
  …… (中略) ……
 земля にはもちろん「大地」「地面」という語義はある。だがその他に、この場面にそぐうようなほかの語義はないのか?
 私は露々辞典をいくつか繙いてみた。そして大発見をした。〈床(ゆか)〉という語義が見つかったのだ。
(藤井一行『翻訳の品格』 著者自家出版会)

 つまり、藤井さんは、先の原卓也訳についていえば、

 だが、長老は苦しみながら、なおも微笑をうかべて一同をながめやり、静かに肘掛椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、床にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように床に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引きとったのだった。


 ── となるべきだ、とおっしゃっているのだと思います。

 しかし、ここはやはり「床」ではなく「大地」という訳語でなければならないのではないでしょうか?

 もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)


 孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大なる贈り物であり、多くの者にではなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。
(同)

 右の「大地」が原文ではおそらくземля なのでしょう。

 また、こちらはもっと後のアリョーシャの描写です。

 何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。
(同)

 ここでも「大地」は земля のはずです。 引用した三つの文章とも、земля を「床」と訳すことはできません。そうして、長老の死の場面におけるземля も、それらと同一の訳語が使われていなくてはならないのではないでしょうか?

 とはいえ、それでも気になるのが、すでにこの作品の最初の方 ── 「場違いな会合」 ── で、これも長老の庵室において、原卓也訳ではこうなっています。

 長老はドミートリイの方に歩きだし、すぐそばまで行きつくなり、その前にひざまずいた。アリョーシャは衰弱で倒れたのだと思いかけたが、それは違った。ひざまずいたあと、長老はドミートリイの足もとにはっきりした、意識的な気跪拝をし、額を地面に触れさえした。
(同)

 さらにその前には、

 ゾシマ長老は見習い僧一人と、アリョーシャとを従えて出てきた。司祭修道士は立ちあがり、指が地に触れるほど深いおじぎをしたあと、祝福を受けて、長老の手に接吻した。二人に祝福を与えると、長老はやはりそれぞれに対して、指を地に触れさせて深いおじぎを返し、自分のための祝福も一人ひとりに求めた。
(同)

 ── とあります。ここでも「地」、「地面」はземля なのだと思うのですが。

『カラマーゾフの兄弟』において「大地」という言葉の意味は非常に重要なので、ドストエフスキーがこの語に、ロシア人読者相手にさえ「床」という意味で読ませるということがどれだけありうるだろうか、と私は思ってしまうのです。自分の無知を承知でいいますが、長老の庵室のつくりに「土」の部分がなかったのかどうか、あるいは、日本人に「土」、「大地」と「床」との違和感が大きすぎるのか、ということを考えてしまいます。この点に関して藤井さんはどう思われますか?

 私は藤井氏に右のメールを送るとともに、いつもの ── ロシア語を解する ── 友人にも問い合わせてみました。いつもながら彼に感謝します。彼の回答はこうです。ゾシマ長老の庵室は「土間」なのだろう。自分はずっと「土間」だと思って読んできた。たしかに『カラマーゾフの兄弟』に「土間」なのか「床張り」なのかという言及はない 。しかし、 ──

・ 作中数個所にあるゾシマの庵室のどの場面でもずっと“пол(床)”という語は用いられておらず、問題の臨終の場面になって初めてこの語が登場するも、後続の「腐臭」ではまた姿を消し、「ガリラヤのカナ」で一個所出てくるのみ(隣の部屋の床の上で[на полу] 若者らしい深い眠りについているポルフィーリイ …… )。
・ その代りに“земля(土、大地)”という語が繰り返し用いられている。その殆どが 「深々とお辞儀をする」、「叩頭する」などの慣用句的な用例ではあるが、これにゾシマの 教えの文脈が加わることにより、自ずと「剥き出しの地面(=土間)」がイメージされるようになっている。
・ 「ゾシマの庵室よりはゆったりとしていて過ごし易いものの、極めて質素な造り」とされている修道院長の住居の描写に“даже полы были некрашеные(板張りの床にさえ何も塗られていなかった)”とあり、極めて間接的ながら、読者の脳裡に『するとゾシマの庵室の床はきっと板張りですらなく、剥き出しの地面(=土間)なのだな』という思いが浮かぶような描き方がなされている。


 ── ということでした。

 さて、萩原俊治氏はземля に「床」という意味があるのはもちろんだ、といい、こうつづけます。

 従って、藤井氏が言うように、米川訳や原訳で「土」とか「大地」とか訳されている「земля」の意味が「床」であることは明らかだ。ここまでは藤井氏に私も同意する。しかし、ドストエフスキーは、なぜ「床(пол)」という言葉を使い続けることをせず、「床(пол)」を「земля(土、大地)」に言い換えたのか。文章に凝って同じ言葉を使うことを避けたのか。ドストエフスキーはまずそういう小細工をしない作家だ。従って、そこには明らかにある意図があったと見るべきだろう。
 たとえば、このゾシマの死のあと、アリョーシャの回心の場面が描かれる。そこでアリョーシャは「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻する。その行為によってアリョーシャは自分をこの世界に送り出してくれた神に感謝している。なぜ「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻するのか。それは神の造った「земля(土、大地)」が自分を育ててくれたからだ。земля(土、大地)」を抱きしめ接吻することによってアリョーシャは、神に感謝しているのである。このとき神の被造物であるアリョーシャは造物主と一体となり回心し、これ以降、彼の信仰は揺るぎのないものになる。
 ゾシマの死の場面は明らかにこのアリョーシャの回心の場面の予告になっている。アリョーシャはゾシマが教えてくれたように振る舞ったのだ。従って、ここは藤井氏のように、「земля(土、大地)」を 「床( пол)」と訳してはいけない。ゾシマの祈りの対象は「床」ではなく、その先にある「大地」だ。われわれが家の中で祈るとき、天井を突き抜けた先にある天に向かって祈りを捧げるように、ゾシマは「床」の先にある「大地」に向かって祈りを捧げているのである。ここを「床」と訳すと、作者がこの場面にこめた意味が失われてしまう。
 ちなみにAndrew. R. MacAndrewの英訳では「земля(土、大地)」は「ground」と訳されている。「ground」にはロシア語の「земля」と同様、「地表」という意味と同時に「床」という意味もあるので、「ground」という訳語を選んだのだろう。
(萩原俊治「『翻訳の品格』」 ── 「こころなきみにも」http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20130211/1360578857

 そうして、萩原氏に ── 彼が『翻訳の品格』についての文章を公開した直後に ── このことを問い合わせてみましたが、「土間」の可能性については不明(不明なものを回答することはできない)ということでした。萩原氏の回答にも感謝します。

 ── というのが、『翻訳の品格』についての文章を私が書き上げられなかったことの大きい理由の第一だったんですが、その他の理由について書くのはもうやめにします。というか、それらが何だったかをもう覚えていません。

(つづく)

『翻訳の品格』(http://book.geocities.jp/ifujii3/hinkaku1.htm)の購入方法については、以下の通りです。

富山大学名誉教授/日ロ電脳センター主宰 藤井一行  日ロ電脳センター 広報担当 中島章利

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