連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「勇気や信念」としか、いまのところいいえないもの

(この章は昨二〇一三年十一月十三日に書き上げていたものです)

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 さて、この文章の表題にもした「勇気や信念」という言葉ですが、これはジム・キャリー主演、フランク・ダラボン監督の『マジェスティック』という映画の日本語字幕「勇気と信念(信念と、信念を持つための勇気)」からの引用の変形なんですね。「勇気や信念」の「や」なんですが、いまのところ、私にとっては「と」ではありません。「勇気信念」というのではない、ということです。つまり、「勇気」「信念」その他あれこれ、ということでの「や」なんですね。これがまだ私には不確定なんです。私には、私が何を考えてこれを表現しようとしているのか、自分でも明確な言葉が確定しないままだ、ということです。(かなり後の公開になりますが、いずれ私の新訳『トーニオ・クレーガー』批判文章において、この「と」と「や」についてを私が問題にしているのを、あなたはご覧になるでしょう)。

 繰り返します。ジューチカとペレズヴォンとが同一の犬ではないかもしれないと考える読者には「勇気や信念」が欠けています。マトリョーシャがマゾヒストであるかもしれないと考える読者には「勇気や信念」が欠けています。そんなひとの読書は実は読書ではありません。そんなふうに読むことが読書の可能性を広げるのだなどと考えてはいけません。読者にそんな自由などありません。

 だいぶ以前に私はこう書きました。

 いいですか。あるひとつの作品について、よく「読者の数だけその作品の読み取りがある」だとか「読者の数だけ誤読がある」だとかいいますが、亀山郁夫はその「読者」に含むことすらできません。

 いいですか。あらゆる読者には「想像力」というものがあって、ある作品を読むときにその「想像力」は「自由」に駆使されるべきであって、読者は「ひとそれぞれ」にどんなふうにも作品を読むことができる ── だから、「あなたも自由に想像の翼をはばたかせてごらんなさい」 ── というようなことをいうひとがいますよね。それはそれで正しいと私は認めます。私もそれを奨励します。ただし、私はいいますが、その場合でも、読者に ── 亀山郁夫が行使しようとしているような ── 無際限な「自由」なんかありはしません。
 なぜか?
 作者の ── 互いに拘束しあう ──「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・拮抗の軌跡としての「作品」が、そこに読者を巻き込むからです。先に引用した私自身の文章を敷衍しますが、読者もその作者の「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・拮抗の軌跡に「拘束」されます。作品においての「何が描かれているか」と「どのように描かれているか」とがせめぎ合い、拮抗していればいるほど、読者によるその読みかたはますます作品に「拘束」されます。しかし、読み進めながら読者はこの拘束のなかですんなり小さくまとめればいいというのでもない。彼は自分の読んでいくなにかしらを、この拘束を脅かすほどに内部から大きく発展させていきます。敢然として拘束に拮抗させていく。そのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが読書なんです。それこそが、読者がどれだけ作品に書かれていることを「真に受ける」ことができるか、ということでもあります。

 亀山郁夫の読書はその「拘束」から遥かに逸脱しています。いい換えれば、でたらめ・屁理屈・わがまま・負け惜しみです。亀山郁夫にしてみれば、自分の「自由」を強調したいところでしょうが、そんな「自由」なんかはありはしないんです。

 私はこの「連絡船」の読者 ── いくらかでも「背伸びをする」つもりのあるひとたち、いまの自分には容易に理解できない作品・手強いと感じる作品に手を伸ばすつもりのあるひとたち、いつかは自分にもその作品を読みこなせるようになるのではないか・その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか、と思っているひとたち ── にこういいましょう。

 小説作品を読むときに、あなたはただそこに書いてあることをそのまま読んでください。そこに何か難解なことが書かれているはずだなどと思わないようにしてください。「ああ、何だ、そうか」というほどの単純なことが書かれていると思って読んでください。一見難しそうに見えたが、実はこんな簡単なこと・当たり前・常識的なことが書いてあるだけなのか、というふうに読んでください。また、同じことですが、文中のある一語にむやみやたらと大げさな意味を持たせないようにしてください。その一語およびそれに絡んだ表現が作品の全体に頻出するようなら、もちろんこれは大事なことですが、そういう頻出は意識せずとも、自然にあなたを先へと導いているはずでもあります。一語に引っかかるよりも、前後の文脈の方を大事にしてください。そういう読書において、実は複雑で実り豊かなのは、「ああ、何だ、そうか」の組み合わせ、絡まり具合、その緊張なんです。逆に、そういうふうに読めば、あなたが引っかかったその一語の意味が明瞭になるでしょう。アフォリズムなどというものに期待するのはやめましょう。ある一文だけを警句的な意味で採りあげ、それだけで完結させてしまうことですね。一文一文に何かが表現されていると考えるより、そういう文章の連なり・塊の方に表現されているものを読んでください。作品というのは静止したものではなくて、常に動いているんです。動きを読んでください。
 ざっと、そんなふうに読むことが小説を読むときの基本だと、おおざっぱながら私はいいましょう。しかし、それらの「ああ、何だ、そうか」というのも、実は危険なことで、それらをあなたは自分のすでに持っている何かの観念に落としこむのでなく、できるだけ作中に書かれているそのままの表現でそのまま保持するのがいいです。作品に書かれていることをあなたはできるだけ「まとめ」ようとしないでください。つまり、あなたがある作品について何かいおうとして、思い浮かべるのが、あなた自身の「まとめ」であるよりは、あなたの読んでいる当の文章そのままであるようにしてください。あなたの頭のなかが作品の引用だらけ ── というか作品全文 ── になるように読んでください。それをそのまま何年も時間をかけて熟成させていってほしいんです。あなたの読んだものが素晴らしい作品であるならば、それはあなたに大きな実りをもたらすでしょう。
 また、こういうふうにも思ってください。作者は可能な限り簡単に・明瞭に・わかりやすく書いています。結果として、いかに晦渋な・難解な・とっつきにくい表現になってしまっているとしても、そうなんです。作者は自分の書いたものをそのまま読んでほしいと思っています。作者は、読者が誤解をしないような書きかたを必ずします。誤解されてしまっては困るからです。妙な解釈をされてはかなわないと思っているからです。どうかそんなふうに思ってください。

 私は最先端=亀山郁夫の読書を否定して、彼の考えているような「自由」などないのだ、といい、彼の読書を「でたらめ・屁理屈・わがまま・負け惜しみ」だといいました。それをいまべつのことばでいい換えれば、最先端=亀山郁夫の読書には「勇気や信念」が決定的に欠けている、ということになります。

 ── というように、私がこのほぼ沈黙していた三年間に考えていたことも、実はとっくの昔に私の書いていたことです。私がこの後公開する『なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?』という文章が、実はずっと昔に書いた『「連絡船」の一読者へのメール』の焼き直しに過ぎなかったように。べつのいいかたをすると、こうです。私がこのほぼ沈黙していた三年間に考えていたことは、この私自身がとっくの昔に考えていたことだった。私がこのほぼ沈黙していた三年間に考えていたことは、この私自身がとっくの昔にたどり着いていた結論にもう一度たどり着くことに過ぎなかった(やあ、これが人生だ!)。であるなら、それは徒労だったか? 徒労ともいえるし、そうでもないともいえます。私の考えがより深化したか? そうともいえるし、そうでもないともいえます。私はこの三年間、以前に私に疑問のメールを送ってきた読者にもう一度同じ回答をし(公開はこれからですが)、それがどうしてそうなってしまったのかを考えつづけてきたのかもしれません。その読者に対する私の態度はより硬化したのかもしれませんし、そうでないのかもしれません。その読者のようなひとはこの世のなかに実にたくさんいます。というより、この世のなかの大多数のひとはこの読者のようなひとなのです。このひとたちが変わらなければ、この世のなかは変わりません。そうして、私がいま考えているのは、その大多数の読者が変わるためには、より少数の読者が強固になることなんでしょう。最先端=亀山郁夫的読書の完全否定をする読者の「勇気や信念」をより強固にすること、ですかね。そうしなければ、大多数の読者の変わりようもありません。この世のなかを自分の「私」が無傷であればそれでいい、と思っているひとたちが変わるためには、自分の「私」などどうでもいいと思っている少数のひとたちが踏んばりつづけることが必要なんです。どんなに嫌われようとも。

 いやいや、話がずれました。
 私が考えているのは、こうです。
 ジューチカとペレズヴォンとが同一の犬でない、だの、マトリョーシャがマゾヒストであった、などということに可能性を見いだす読者は、私にいわせれば「勇気や信念」を欠いているんですが、そのひとたちの心情はわからないではないです。そこで、トーマス・マンの『魔の山』から引用しますよ。もちろん、この話し手セテムブリーニは、そのひとたちの心情を非難しているわけですけれど。

「まあ、おき ── きください。あなたがおっしゃろうとしていることは、私にはわかっておりますから。あなたはおっしゃりたいんでしょう、あなたのいまのお考えはそれほどふかい考えでおっしゃったのではないこと、あなたが代弁なさった考えは、そのままあなたのお考えというのではなくて、いわば空中にただよっているいくつもの可能な考え方の一つをとらえて、その考え方をかるい気持ちで実験してみようとなされたんだと。あなたのご年齢にありがちなことです、男性としての決断を欠き、しばらくさまざまな考え方を実験してみたいという年齢には。実験採択(placet experiri)」とセテムブリーニは、プラケット(placet)のケをイタリア語ふうに柔らかくチェと発音していった。「結構な言葉です。」
(トーマス・マン『魔の山』 関泰祐・望月市恵訳 岩波文庫)

 いいですか?「あなたのいまのお考えはそれほどふかい考えでおっしゃったのではないこと、あなたが代弁なさった考えは、そのままあなたのお考えというのではなくて、いわば空中にただよっているいくつもの可能な考え方の一つをとらえて、その考え方をかるい気持ちで実験してみようとなされたんだ」という、この「実験採択」というのが「勇気や信念」を欠いた行為なんですよ。
 いいですか? ジューチカとペレズヴォンとが同一の犬でないという記述がないから、これはべつの犬だという可能性があるわけで、そういうことを考えてもいいじゃないか? 考えればいいじゃないですか。しかし、そこから、「そういう見方もありうる」だの「同一の犬ではない」なんて結論に達したり、そのことを他人に表明することは、あなたの決定的な「勇気や信念」の欠如を意味するんですよ。マトリョーシャ=マゾヒスト説も同断。
 私がそんなふうにいうと、それについて私が「公平」を欠いていると非難するひとがいるかもしれません。いや、いるでしょう。しかし、そういうひとは、そう非難した時点で自分の「勇気や信念」の欠如を表明していることになるんです。

 本当はもっといろんな言い訳を連ねようと思っていたんですが、自分でもうんざりしてきました。

 さて、ここから私がどうするかというと、とっくに書き終えている『なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?』や『さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!』をこれにつづけて公開するのではなくて、それらの後に書きはじめたいくつかの文章を仕上げ、こちらを先に公開しようと思います。平野卿子による新訳『トーニオ・クレーガー』(河出文庫)批判の文章もまだ修正しなくてはなりません。そうして、その後でようやく『「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない』のつづきにかかるわけです。先は長いです。

(二〇一三年十一月十三日)

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