「勇気や信念」としか、いまのところいいえないもの (この章は昨二〇一三年十一月十三日に書き上げていたものです)
4 さて、この文章の表題にもした「勇気や信念」という言葉ですが、これはジム・キャリー主演、フランク・ダラボン監督の『マジェスティック』という映画の日本語字幕「勇気と信念(信念と、信念を持つための勇気)」からの引用の変形なんですね。「勇気や信念」の「や」なんですが、いまのところ、私にとっては「と」ではありません。「勇気と信念」というのではない、ということです。つまり、「勇気」や「信念」や、その他あれこれ、ということでの「や」なんですね。これがまだ私には不確定なんです。私には、私が何を考えてこれを表現しようとしているのか、自分でも明確な言葉が確定しないままだ、ということです。(かなり後の公開になりますが、いずれ私の新訳『トーニオ・クレーガー』批判文章において、この「と」と「や」についてを私が問題にしているのを、あなたはご覧になるでしょう)。 繰り返します。ジューチカとペレズヴォンとが同一の犬ではないかもしれないと考える読者には「勇気や信念」が欠けています。マトリョーシャがマゾヒストであるかもしれないと考える読者には「勇気や信念」が欠けています。そんなひとの読書は実は読書ではありません。そんなふうに読むことが読書の可能性を広げるのだなどと考えてはいけません。読者にそんな自由などありません。 だいぶ以前に私はこう書きました。
私は最先端=亀山郁夫の読書を否定して、彼の考えているような「自由」などないのだ、といい、彼の読書を「でたらめ・屁理屈・わがまま・負け惜しみ」だといいました。それをいまべつのことばでいい換えれば、最先端=亀山郁夫の読書には「勇気や信念」が決定的に欠けている、ということになります。 ── というように、私がこのほぼ沈黙していた三年間に考えていたことも、実はとっくの昔に私の書いていたことです。私がこの後公開する『なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?』という文章が、実はずっと昔に書いた『「連絡船」の一読者へのメール』の焼き直しに過ぎなかったように。べつのいいかたをすると、こうです。私がこのほぼ沈黙していた三年間に考えていたことは、この私自身がとっくの昔に考えていたことだった。私がこのほぼ沈黙していた三年間に考えていたことは、この私自身がとっくの昔にたどり着いていた結論にもう一度たどり着くことに過ぎなかった(やあ、これが人生だ!)。であるなら、それは徒労だったか? 徒労ともいえるし、そうでもないともいえます。私の考えがより深化したか? そうともいえるし、そうでもないともいえます。私はこの三年間、以前に私に疑問のメールを送ってきた読者にもう一度同じ回答をし(公開はこれからですが)、それがどうしてそうなってしまったのかを考えつづけてきたのかもしれません。その読者に対する私の態度はより硬化したのかもしれませんし、そうでないのかもしれません。その読者のようなひとはこの世のなかに実にたくさんいます。というより、この世のなかの大多数のひとはこの読者のようなひとなのです。このひとたちが変わらなければ、この世のなかは変わりません。そうして、私がいま考えているのは、その大多数の読者が変わるためには、より少数の読者が強固になることなんでしょう。最先端=亀山郁夫的読書の完全否定をする読者の「勇気や信念」をより強固にすること、ですかね。そうしなければ、大多数の読者の変わりようもありません。この世のなかを自分の「私」が無傷であればそれでいい、と思っているひとたちが変わるためには、自分の「私」などどうでもいいと思っている少数のひとたちが踏んばりつづけることが必要なんです。どんなに嫌われようとも。 いやいや、話がずれました。 私が考えているのは、こうです。 ジューチカとペレズヴォンとが同一の犬でない、だの、マトリョーシャがマゾヒストであった、などということに可能性を見いだす読者は、私にいわせれば「勇気や信念」を欠いているんですが、そのひとたちの心情はわからないではないです。そこで、トーマス・マンの『魔の山』から引用しますよ。もちろん、この話し手セテムブリーニは、そのひとたちの心情を非難しているわけですけれど。
いいですか?「あなたのいまのお考えはそれほどふかい考えでおっしゃったのではないこと、あなたが代弁なさった考えは、そのままあなたのお考えというのではなくて、いわば空中にただよっているいくつもの可能な考え方の一つをとらえて、その考え方をかるい気持ちで実験してみようとなされたんだ」という、この「実験採択」というのが「勇気や信念」を欠いた行為なんですよ。 いいですか? ジューチカとペレズヴォンとが同一の犬でないという記述がないから、これはべつの犬だという可能性があるわけで、そういうことを考えてもいいじゃないか? 考えればいいじゃないですか。しかし、そこから、「そういう見方もありうる」だの「同一の犬ではない」なんて結論に達したり、そのことを他人に表明することは、あなたの決定的な「勇気や信念」の欠如を意味するんですよ。マトリョーシャ=マゾヒスト説も同断。 私がそんなふうにいうと、それについて私が「公平」を欠いていると非難するひとがいるかもしれません。いや、いるでしょう。しかし、そういうひとは、そう非難した時点で自分の「勇気や信念」の欠如を表明していることになるんです。 本当はもっといろんな言い訳を連ねようと思っていたんですが、自分でもうんざりしてきました。 さて、ここから私がどうするかというと、とっくに書き終えている『なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?』や『さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!』をこれにつづけて公開するのではなくて、それらの後に書きはじめたいくつかの文章を仕上げ、こちらを先に公開しようと思います。平野卿子による新訳『トーニオ・クレーガー』(河出文庫)批判の文章もまだ修正しなくてはなりません。そうして、その後でようやく『「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない』のつづきにかかるわけです。先は長いです。 |