連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



最先端=亀山郁夫の『これからどうする』

(この章は昨二〇一三年十一月十八日に書き上げていたものです)

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 岩波書店刊『これからどうする』(二〇一三年六月刊)収録の最先端=亀山郁夫のあまりに稚拙で愚劣な文章と、現ロシア文学会会長=沼野充義のあまりに狡猾な文章を批判します。ふたりの文章はこの本の「文化・芸術のゆくえ」という章にあります。しかも、その筆頭とその次という、素晴らしい組み合わせでもあります。

 まずは最先端=亀山郁夫から。
 いくつかに分割してはいますが、全文を引用しています。抜粋じゃありません。なぜこんなことを断わるかといえば、ふつうの読者にはこの全文がまったく全文であるとは信じられないほどひどいつくりになっているからです。文章のまともな読み手なら必ず「何じゃ、こりゃ?」、「ひどいね、これ」というようなレヴェルの文章を批判しなければならない ── 私はいつまでこんなことをつづけなきゃならないんでしょうか? ── のはものすごく苦痛でしたが、何とか我慢してやり通してみました。以下に私が解説するのは、まったく意味不明な文章ですが、それゆえにこそ書き手の本音があからさまになってもいる、興味深い見本のような文章だともいえるでしょう。つまり、これこそ最先端=亀山郁夫だ! といえるような文章です。ふつう、これこそこのひとの文章だ! というと最上の賞賛になるかと思われますが、この場合がまったく逆であることはいうまでもありません。
 私は提案しますが、日本全国の高校の国語の先生たちは、この文章を生徒たちに読ませ、この文章で意味のわからないところを指摘させ、それがどうしてなのか、何が欠けているのか、どうなればいいのかを発表させ、これが本来どのような文章であるはずだったかの意味の通る全体像が浮かび上がったところで、この書き手の人物像を作文させたら、「文は人なり」という面で、非常によい作文の授業になると思います。

 とはいえ、こういうことも考えさせられます。『これからどうする』というテーマで「文化・芸術のゆくえ」について書けといわれた場合、もうその瞬間に書き手の誰もが思い浮かべるある形があるでしょう。つまり、結論として「文化・芸術」はこれこれこういうふうに未来に伝えられなくてはならない、というのも、「文化・芸術」というのにはこれこれこういうふうに「人間」にとって意味のあるものだからである、それなのに現状では「文化・芸術」の受容はこれこれこのように危機的状況に陥っている、云々。これ以外のことを思いつく書き手のことをまず想像することはできません。そこで、書き手に問われるのは、同じそのことを「どのように」書くか、ということになってしまうだろう、と私には思われます。つまり、書き手の誰もが当たり前のことをわざわざ書かなくてはならないわけです。はっきり、非常につまらないことになってしまうでしょう。それでも、当たり前のことを、読者の想定を超えて強固なことば ── 読者が自分のこれまでの認識を恥じるほどに ── で書ききるひとはいるでしょう。しかし、そこまでじゃないでしょうか? こういうのが、『これからどうする』というテーマで「文化・芸術のゆくえ」について書くということのつまらなさです。
 まあ、それはいいでしょう。ともあれ、この本に最先端=亀山郁夫の文章が収められていて、しかも最先端=亀山郁夫らしく自身の「小さい・せこい・貧しい・薄っぺらな」本質を、これでもかというくらい表現してくれているので、私としては、あーあ、本当にうれしい限りです。

 では、行きますよ。

 ロシアのある作家が、こう書いている。
 人間は、次の三つのカテゴリーに分けられる。すなわち、
 一、『カラマーゾフの兄弟』(以下『カラ兄』)をすでに読んでいる人間
 二、これから読もうとしている人間
 三、未来永劫、手にとろうとしない人間
 人間のタイポロジーをここまで単純化できる作家は、むろん『カラ兄』に深く心酔した経験をもつ人間である。数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足は、何ものにもかえがたく、伝説上、五〇回読んだとされる哲学者ヴィトゲンシュタインもその一人だったにちがいない。音楽との類推でいうなら、ベートーヴェンの「第九」にとことん酔うことのできた人間が感じる自信と満足もこれに近い。ことによると、その自信と満足こそが、「教養」を、「共有」に値する知の体系へと押し上げている力そのものなのではないだろうか。
(亀山郁夫「教養知の再生のために」『これからどうする』岩波書店 所収)

 最初に「カテゴリー」ということばを用いたのなら、次に「タイポロジー」などといわず、たとえば「人間をここまで単純にカテゴライズできる作家」とした方がスマートじゃないか、とか、この短い文章で『カラマーゾフの兄弟』をわざわざ『カラ兄』などと省略する必要がなぜあるのか(文字数制限があるのなら、他にいくらでも削るべき無駄なことばや文があるだろう)・(いや、いいかげんのでたらめだらけの自分の翻訳が、ともあれ結果的に、流行語としての『カラ兄』を生み出したことの自慢をしたいんだろう、つまり『カラ兄』とは米川正夫訳でもなく、原卓也訳でもなく、最先端=亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』のみを指し示しているのだ!) 、とか、『カラマーゾフの兄弟』の分量を「数千頁」というのは大げさすぎないか(当の最先端=亀山郁夫訳ですら二〇〇〇ページちょっとですし、原卓也訳は二〇〇〇ページに満たないわけですし、私の持っているドイツ語訳ペーパーバック ── 私が読んでいるなどと思ってはいけません ── はほとんど一〇〇〇ページちょうどくらいです。「数千頁」なんてことをいうなら、せめて五、六〇〇〇ページはほしいじゃないですか)なんてことを私はいいたいのではありません。

 人間のタイポロジーをここまで単純化できる作家は、むろん『カラ兄』に深く心酔した経験をもつ人間である。数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足は、何ものにもかえがたく、伝説上、五〇回読んだとされる哲学者ヴィトゲンシュタインもその一人だったにちがいない。音楽との類推でいうなら、ベートーヴェンの「第九」にとことん酔うことのできた人間が感じる自信と満足もこれに近い。
(同)

 哲学者ヴィトゲンシュタインが「その一人だった」というのは、「『カラ兄』に深く心酔した経験をもつ人間」だったということですね。そうして、ここでヴィトゲンシュタインの名前が出るのは、彼が「数千頁におよぶ膨大な小説」を「伝説上、五〇回読んだとされ」るからですね。ここが問題です。ここで最先端=亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』に「心酔」する読者が「心酔」するその理由を「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足」に帰しているんです。ベートーヴェンの「第九」が引き合いに出されますが、おそらくここでも最先端=亀山郁夫はこの曲に「とことん酔うことのできた人間が感じる自信と満足」の理由を、この曲がいわゆる「大曲」であるからだといっているわけです。そうして「ことによると、その自信と満足こそが、「教養」を、「共有」に値する知の体系へと押し上げている力そのものなのではないだろうか。」とつなげるんです。これは何でしょうか?

 あのね、 ──

  人間は、次の三つのカテゴリーに分けられる。すなわち、
 一、『カラマーゾフの兄弟』(以下『カラ兄』)をすでに読んでいる人間
 二、これから読もうとしている人間
 三、未来永劫、手にとろうとしない人間
(同)

 ── と書いたひとがいるのなら、そのひとはもちろん体験としての『カラマーゾフの兄弟』読書についていっているんでしょうが、その体験に「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足」なんてものは一ミリも含まれていません。また、ある作品の読書体験が、読者を読む以前の自分に戻れないほど変えてしまうというくらいの一般的なことをいっているのでもなく、読書体験による読者の変化が『カラマーゾフの兄弟』という作品では非常に特別なのだというんです。他の読書体験ではいざ知らず、『カラマーゾフの兄弟』体験では、読者の個人的な何かが変化するというより、人間的な何かが変化する、読者は人間としてべつの存在に変化しているというほどのことをいっているんです。しかし、断わっておきますが、『カラマーゾフの兄弟』を読んだからといって、その誰にでもにそういう変化が起こるわけではありません。いくらこの作品を最後のページまで読み通そうが、この作品に共鳴できる人間とそうでない人間、この作品と共振できる人間とそうでない人間がいます。それゆえにこそ、カテゴリーのふたつめに「これから読もうとしている人間」があるんです。「これから読もうとしている人間」というのは、「さあ、これから世界文学の最高傑作といわれている『カラマーゾフの兄弟』を読むぞ」などと思っている人間のことではありません。そうではなくて、『カラマーゾフの兄弟』を読めば、必ず作品に共感できる人間、必ず作品と共振できる人間のことをいっているんです。そうして、「未来永劫、手にとろうとしない人間」というのは、むろん、未来永劫、『カラマーゾフの兄弟』に共鳴もできなければ、これと共振もできない人間のことです。つまり、「未来永劫、手にとろうとしない人間」のうちに、『カラーゾフの兄弟』を最後のページまで読み通した人間は含まれますし、さらに、この作品を日本語に翻訳した人間ですら含まれます。当然ながら、最先端=亀山郁夫が含まれるのは「未来永劫、手にとろうとしない人間」のカテゴリーです。アリョーシャの「あなたじゃない」が「イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます」だの、ペレズヴォンはジューチカとはべつの犬だだの、 「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」がフェラポント神父の傲慢さへの非難だの、その他たくさん、としか読めていない人間は『カラマーゾフの兄弟』を「未来永劫、手にとろうとしない人間」です。まあ、この三つのカテゴリーを並べたひとは、まさか『カラマーゾフの兄弟』を最後のページまで読み終えた読者に最先端=亀山郁夫のようにとんちんかんな人間が混じっているだなんて想像もつかなかったでしょうけれど。
 まったく、何が「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足は、何ものにもかえがたく」ですか! そんなふうにいう最先端=亀山郁夫にかかると、まるでヴィトゲンシュタインが『カラマーゾフの兄弟』の読書回数の世界記録にでも挑戦していたみたいです。
 もうひとつ、またべつの視点からいいます。『カラマーゾフの兄弟』を読み終えたひとたち(ここでは単に作品の最後のページまで読み終えたひとたちを含みます)は、いったい自分が「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげた」などと思うんでしょうか? むしろ、あっという間に読み終えてしまったので、長さなんかまったく気にならなかったのじゃないでしょうか? これが、トルストイの『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』、トーマス・マンの『ブデンブローク家の人々』や『魔の山』でなら「長さ」を実感しもするでしょう。しかし、『カラマーゾフの兄弟』でそれはないんじゃないですか? それに、ものすごく長い作品を読み切ったという達成感なんてものが「自信と満足」に結びつくのは、ほとんど読書経験のない初心者 ── 中学生とか高校生とか ── だけじゃないでしょうか?

 さて、それはともかく、これをおぼえておきましょう。

 ことによると、その自信と満足こそが、「教養」を、「共有」に値する知の体系へと押し上げている力そのものなのではないだろうか。
(同)

 最先端=亀山郁夫は「「教養」を、「共有」に値する知の体系へと押し上げている」というんですが、そうすると、彼のいう「教養」というのは「「共有」に値する知の体系」とはべつのものであって、しかも下位にあるわけですね。おぼえておきましょう。

(つづく)

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