連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



最先端=亀山郁夫の『これからどうする』

(この章は昨二〇一三年十一月十八日に書き上げていたものです)

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 さて、次。

 今から約三年前(ということは、東日本大震災の前のことである)、日本とポルトガルの修好一五〇周年を祝う記念式典に招かれた私は、急ごしらえのスピーチでこんな話をしたことがある。『カラ兄』は、「ロシアの『カンディード』を書く」という作家の強い意思のもとに書かれた小説であり、他方、『カンディード』は、フランスの哲学者ヴォルテールが、一七五五年のリスボン大震災の衝撃のもとに書きあげた小説である、よってドストエフスキーとポルトガルとの間には浅からぬ縁がある。一種の三段論法だった。そしてスピーチの終わりは、ドストエフスキーが小説のなかで言及している「リスボンワイン」を私もぜひ一度味わってみたい、という言葉で締めくくった。今にして思うに、式典の趣旨を弁えない、相当に場違いなスピーチだった。ところが、思いがけずそれが、ポルトガル大使のお気に召すところとなって、以来、大使との間に信頼関係が生まれ、三年後、ポルトガルのカモンイス院(日本の国際交流基金に相当する機関)と東京外国語大学との一種の学術的な「ビジネス」へと発展した …… 。
(亀山郁夫「教養知の再生のために」『これからどうする』岩波書店 所収)

 何ですか、この「一種の三段論法だった」っていうのは? これ、まったくなくてもかまわない文ですよね? そうして、あえて生かす意味もまったくありませんよね? 同じ字数のべつの文で置き換えるとしたら、こうですか? 「うひひひひひひひひひ」。これ、右の文章のいろんなところに挿入したらいいと思います。やってみましょう。

 今から約三年前(ということは、東日本大震災の前のことである)、日本とポルトガルの修好一五〇周年を祝う記念式典に招かれた私(うひひひひひひひひひ)は、急ごしらえのスピーチでこんな話をしたことがある。『カラ兄』は、「ロシアの『カンディード』を書く」という作家の強い意思のもとに書かれた小説であり、他方、『カンディード』は、フランスの哲学者ヴォルテールが、一七五五年のリスボン大震災の衝撃のもとに書きあげた小説である、よってドストエフスキーとポルトガルとの間には浅からぬ縁がある。うひひひひひひひひひ。そしてスピーチの終わりは、ドストエフスキーが小説のなかで言及している「リスボンワイン」を私もぜひ一度味わってみたい(うひひひひひひひひひ)、という言葉で締めくくった。今にして思うに、式典の趣旨を弁えない、相当に場違いなスピーチだった。ところが、思いがけずそれが、ポルトガル大使のお気に召すところとなって(うひひひひひひひひひ) 、以来、大使との間に信頼関係が生まれ(うひひひひひひひひひ) 、三年後、ポルトガルのカモンイス院(日本の国際交流基金に相当する機関)と東京外国語大学との一種の学術的な「ビジネス」へと発展した ……(うひひひひひひひひひ)。

 最先端=亀山郁夫は、ここで自慢たらたらに「商売」の話をしているわけですね。しかし、これ、常識的に考えて、最先端=亀山郁夫が「日本とポルトガルの修好一五〇周年を祝う記念式典に招かれた」というのは、彼が東京外国語大学の学長だったからでしょう? そうして、ポルトガル大使にしてみれば、最先端=亀山郁夫がどんな馬鹿なスピーチをしようが、おだてあげ、自国の若者の留学事情をよいものにしようと考えているはずですよね。

 さあ、それで、最先端=亀山郁夫がこの後どうつづけたか?

 教養知には、どうやら、秘密結社めいた同志愛を育む独特の力が備わっているらしく、とくに文学や音楽をめぐる話題は、虚学どころか、現実的なビジネスを側面から援護射撃する実学的な側面もある。しかし、一概に教養知といっても、グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなかで、その概念自体、著しい変容にさらされていることは火を見るよりも明らかである。他方、そうした状況も顧みず、一部の有識者からは、教養が大切、教養の復権をといったお題目が、百年一日のごとく唱えられている。
(亀山郁夫「教養知の再生のために」『これからどうする』岩波書店 所収))

 右の文章を読んで、意味がわかりましたか? 私にはわかりませんでした。まず「教養知」って何だ? 同じ文章のなかに出てくる「教養」と何が違うのか? しかし、この後の文章をも読んで、いくらかは理解したところでは、こういうことらしいです。たぶん、「教養知」というのは「教養」を構成する「素材(「教養」を得るために読むべき「作品」)」のようです。たとえば、『カラマーゾフの兄弟』という作品が「教養」を構成する素材(「作品」)のひとつだということなんでしょう。(しかし、後でも書きますが、実は私が最先端=亀山郁夫の発言で「教養知」ということばに触れたのはこれが初めてではなかったんですね)。

 教養知には、どうやら、秘密結社めいた同志愛を育む独特の力が備わっているらしく、とくに文学や音楽をめぐる話題は、虚学どころか、現実的なビジネスを側面から援護射撃する実学的な側面もある。
(同)

 さて、この文章の頭からここまでを考えてみると、どうやら、こういうことのようです。
「あ、あんた、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことあるのか? 俺もだよ。あれ、スゴいよな。あれのスゴさを、あんたも俺も知っているってことだ。そんな俺たちってスゴいよな。読んでない馬鹿とは違う人種ってことだ。俺たち特別。俺たちエリート」という「秘密結社めいた同志愛を育む独特の力が備わっている」ということのようです。もちろん、ここで最先端=亀山郁夫がいうのは、『カラマーゾフの兄弟』という「「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足」にもとづいた同志愛であって、作品の内容を正しく理解したというのとはべつの次元の話なんですね。それでも、そんな馬鹿どうしのやりとりでの「現実的なビジネスを側面から援護射撃する実学的な側面」がクローズアップされるわけです。「現実的なビジネスを側面から援護射撃する実学的な側面」って、何ですかね? というか、ここで最先端=亀山郁夫のいっているのは「現実的なビジネス」に結びつかない文学研究というのが「実学」ではなくて「虚学」だということですね。「虚学」って何だ? 「実学」の対極にあるものとして最先端=亀山郁夫がいっているのはわかりますが、察するに「商売」にならない、金にならない学問ってことですかね。

 さらに、

 しかし、一概に教養知といっても、グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなかで、その概念自体、著しい変容にさらされていることは火を見るよりも明らかである。
(同)

 これはどういう意味なんでしょうか? 「テンポ感」って何だ? などと突っ込みを入れてもしかたありません。「グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなか」では、『カラマーゾフの兄弟』の価値も「著しく」上下する、ってことでしょうか。今日は『カラマーゾフの兄弟』が「教養知」として持ち上げられたかと思うと、明日には急降下する、とか、そういうことをいっているんですかね? どうでしょう? そんなことが「火を見るよりも明らか」なんですか? ここ、最先端=亀山郁夫はもっと字数を使って説明したらよかったんじゃないですか? 「一種の三段論法」がどうたらいうことを自慢たらたらで書く余裕があるのならば? こちらにはさっぱり意味がわかりませんよ。

 他方、そうした状況も顧みず、一部の有識者からは、教養が大切、教養の復権をといったお題目が、百年一日のごとく唱えられている。
(同)

 たぶん最先端=亀山郁夫にとっては、「教養が大切、教養の復権をといったお題目」を唱えている「一部の有識者」が「グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなかで、その概念自体、著しい変容にさらされている」はずの「教養知」を、あたかも不変であるかのごとくに唱えるのがおかしいと思われるのでしょう。『カラマーゾフの兄弟』でいえば、この作品が現在「教養知」として認められるのは、「グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなかで」の偶然であって、『カラマーゾフの兄弟』は普遍的な「教養知」ではありえない、といっているんでしょう。たまたま現在の日本で、いいかげんのでたらめだらけとはいえ、自分の訳した『カラマーゾフの兄弟』がヒットしただけであって、このヒットゆえに『カラマーゾフの兄弟』に、たまたまの「教養知」としての価値が生じたのであって、そうでなければ、『カラマーゾフの兄弟』についての研究とか翻訳なんてものには普遍的価値なんかありゃしない、というわけなんでしょう。それらは「虚学」だ、といいたいんでしょう。「教養が大切、教養の復権をといったお題目」を唱えている「一部の有識者」が「虚学」の学者たちだということでしょう。

 いやあ、最先端=亀山郁夫はこの数年間、まったく変わっていませんね。一貫しています。これを思い出しましたよ。(そして、ここですでに「教養知」ということばが登場していました)。

 先ほどの「教養知」と最先端的研究という、この一つの実例というのを、自分に照らして提示したいと思うわけです。そこまで君はナルシストかとのそしりを恐れつつも、自分なりにひとつ言いたいことがあるんですね。私がドストエフスキー研究に入り込んだのは、この過去五、六年です。結局、ドストエフスキーの研究は、私の研究は今最先端だと自分なりに自負しているんですね、少なくとも日本においては。問題は、なぜそう自負できるか、という点にあります。私は、ロシア・アヴァンギャルド研究の後に八年間ほどスターリン文化研究に励みましたが、そのスターリン文化研究の構造をそのままドストエフスキー研究に持ち込んでみたわけです。そこでどういう発見があったかというと、例えば一〇代の後半、終わりから、大学時代から営々とドストエフスキー研究を積み重ねた人たちは、五〇代の後半になったら新鮮な想像力も何もすべて失っているんですね。ほとんどドストエフスキーのテクストになまで感動するということはない。テクストの細部から何か新しい真実を見出していくということがほとんどできなくなっていて、目新しい視点、発想はほとんどゼロなんです。
(学術研究推進部会「議事録」)

 最先端=亀山郁夫、懲りない男です。

(つづく)

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