航行記 ── 第二期(二〇〇八年三月 ── 二〇〇八年五月) (一)今後二十五年間の仕事 「航行記」と名づけて二〇〇六年三月からここまで二年間書いてきた文章を「第一期」として、ここからを「第二期」としますが、いまの私のつもりからすると、これは単純に文章の一定分量とか二年間という時間を区切りとするということではありません。これ以後、「第二期」からの私の文章は、はっきり「第一期」の文章とは質が異なるはずだと信じています。 今年二〇〇八年が明け、ほどなく四十五歳にもなって数日後の眠りから覚めてみると、「今後二十五年間の仕事」ということを私は考えてしまっていた ── その考えが私に居座ってしまっていた ── んですね。まずは苦笑したんですが、それでも、私はすぐに「おれはこれを本気にするのか?」と自問するなり、「本気にする」と自答していたんです。 それはこういうことです ── 自分の「今後二十五年間の仕事」が何であるのか、私にはわかっている、つまり、この企て=「連絡船」を、いまから私は「今後二十五年間」という展望で仕切りなおす。これは、自分の足下ばかりを見るようにしながらの書きかたをもうしないということでもあって、ということは、「のんびりだらだら」などといいながら、私はやっぱりなにかしら焦りのようなものを抱えていたんですね。以前に書いたことを絡めて考えると、「ぼくはこの世界で自分が正当に権利を主張しうるものは、なにひとつなくなってしまった、という風に感じていたのさ」(大江健三郎)と「ただ一人でも行く」(大西巨人)との間を揺れ動いていた、というようなわけになりますか。これは、急がない=これまでにもまして遅々とするということを私が考えはじめているということでもあります。 ともあれ、二十五年後の私、── 生きていれば七十歳 ── 現時点でその年齢の自分がありうるとはとても思えない・想像もできないけれども、二十五年前に現在の自分を想像したよりは、まだいくらかの手応えを得られはしているでしょう。それでも、十年くらい前まで私は、自分の寿命を ── グスタフ・マーラーを思い浮かべながら ── 五十一歳前後に設定していたんですよ。そうして、できるだけこの生が早く終わればよいというふうでもあったんです。 二十五年間。私のこれまでの人生の半分以上にもなります。ここで、ちょっとデヴィッド・ボウイのアルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』の一曲め、イントロの淡々としたドラムから引き込まれる「Five years」から引きますが、
二十年前=二十五歳当時から、およそ十年くらい前(三十代後半)までの私は、「残り五年間」というこの歌の設定(とともに、それがこんなふうに ── こんなに簡単に・単純に・さらりと ── 描かれること)にとても惹かれていたんです。 そしてまた、話を戻しますが、翌二月には身体的にこういうことがありました。約一年前に私はぎっくり腰というのを初めて経験していたんですけれど、それ以前からの数年間というもの、腰への懸念をずっと抱えていたのでもありました。それで、私は自分の勤める書店で『中高年からのやわらか筋トレとストレッチ入門』(主婦の友社編 主婦の友社)を立ち読みしまして、そこに書かれていた、仰臥して腕をいくらか左右に開き、膝は起こした体勢で、軽く尻を持ち上げる体操を始めたんです。一週間ほど後にはもうその効果があらわれていて、私は自分の腰から上と下とが ── 頭から足の先までが ── つながっているという感覚を得ることができもし、それはなにより歩行の力強さと安定の回復につながっていましたし、姿勢の矯正にも結んでいたんですね。動作も非常に楽になり、階段の登りなどは、とても楽々としてきました。そうすると、これまでの数年間の自分の身体・生活はなんだったのか、と思うことにもなりました。つまり、この数年間というもの、私の身体・生活が惨憺たるものであったことが判明したんです。いま、私はこの体操にいくらか自分なりの工夫をつけたし、さらにまたべつの体操を始めてもいます。 そうして、私は『大西巨人文選 2 途上』(大西巨人 みすず書房)を読んでもいました。 私は、自分が強烈に指弾されている ── しかも、それは非常に適切である、私はそれに対して返すことばがない ── と感じた箇所を引用しておきます。
いまの文章中の「親の意見を聞くような奴は、道楽仲間の面汚し」を、大西巨人は一九七四年にも再び引いて、こう書きました。
この「親の意見を 聞くような奴は 道楽仲間の 面汚し」的意識に、四十五歳にもなったこの私がいまだにぬくぬくと浸っていたということを、今回痛感することになりました。まったくあまったれていた・だらしのない自分、ですね。 こういう意識の自分 ── これは、先にいった「十年くらい前までは」の自分のそのままの延長で、この人生に自分が何も期待しない代わりに、その自分はなにをしてもいいだろうというふうに考えていたんですね ── がこの「連絡船」を続けられるわけがないだろう、「今後二十五年間の仕事」が聞いて呆れるということです。そう思いました。これを補足するなら、こうです。つまり、以下のような信条の人間には「今後二十五年間の仕事」なんかありえないということです。
私はこの『母なる夜』を、自分がこれまで読んだなかで最も悲しい(悲しみを呼び起こされる、そうして、「悲しみ」というものは自分がこれまで知っているつもりであったものでなく、この読書で自分が体験したものこそがそれなのだと感じる)作品と考えています。それはいまでも変わらないんですが、右の引用部分にものすごく惹かれるにせよ、もうこれからは、たとえば「愛なしですませ」などと自分に言い聞かせるようなことはすまい、というか、もうそれはありえない、と思うんです。逆にいえば、これまで私は「愛なしですませ」と考えてきたんです。私はこの「愛なしですませ」の意味を、おそらく完全に承知しています。そのうえで、いま、今後の自分にこれはありえないだろうと私はいうわけです。 それで思い出すのは ──
── というわけで、なお私は行くことにしました。 私には、自分があまりにも大変な目標を設定してしまった、というつもり ── 気負いといってもいいですが ── が全然ありません。私はこう考えています。自分はただ淡々とこの仕事を続けていくだけだ、できることはあるし、できないこともある、それはしかたがない。そうして、私がその自分のモデルとして思い浮かべているのは、映画『善き人のためのソナタ』(フロリアン・ヘンケル・ドナースマルク監督作品)の終盤部分でカートを引きずりながら郵便配達をする主人公の姿です。 (二〇〇八年三月二十五日)
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