(二四)翻訳の問題 ── その二 『黄色い雨』 問題 ── 次の文章を読んで、後に記す設問に答えなさい。
文中の( )内に入ることばを次のふたつのうちから選びなさい。 A 最初に B 最後に フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』(木村榮一訳 ソニーマガジンズ 二〇〇五年九月十日 初版第一刷発行)。この本についている帯には「柴田元幸氏絶賛!」の文句とともに「この小説を読むことで、あなたの世界は全てが変わってしまうだろう。」とあります。この作品についてはいずれ「読書案内」をするつもり ── ということは、むろん私はこれを「よい作品」であると思っているわけで、すでに私は自分の勤める書店のホームページに原稿を書いています ── ではあるんですが、ここでは前回につづいて「翻訳」の話です。 この本を私はまず二〇〇五年九月十五日に読み終え、さらに十九日に再読を終えていました。それから、私は自分の勤める書店で、来訪したソニーマガジンズの営業担当者に、この本には三つの誤植(入力・変換ミス)のあることを告げ、翌日(九月二十九日)、次のように非常に簡単なメールを送りました。
それぞれの箇所を引用してみますが、 まずは、
あっ、今度は私自身の間違いに気づいたんですが、私がメールで「痛み」と書いたのは、本文では「傷み」だったんですね。誤植を問題にした当の私自身がこのようなことでは非常にまずいですね。反省します。 ともあれ、私が問題にしたのは、「傷みが着ており」は「傷みが来ており」の誤りだろうということだったんです。 次は、
── は「そこが私にとって終の住処となった」の誤りだろうということだったわけです。 最後が、ここでの冒頭に挙げた文章で、
── での最初の行の「最初に」が「最後に」の誤り(入力・変換ミス)だろうと思ったんです。 それからしばらくして、ソニーマガジンズの営業担当者から店に電話がありまして、おおよそ次のような内容でした。
驚きました。「翻訳者が原作者に照会中」というのは、つまり、「木村榮一(ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』などの翻訳者です)がフリオ・リャマサーレスに照会中」ということじゃないですか。なんという大事になっているのか、と思いました。 これはまた次のような事情を示してもいるはずです。これは先の二点のような単純な変換ミスではなかった。原文通りに翻訳した結果が「最初に」だった。しかし、その「最初に」が文章の前後関係からして「最後に」である方が適当ではないかということを翻訳者自身があらためて感じた。それゆえの原作者への照会だ、ということです。 そうして十月十八日付での、編集担当者郷雅之さん(後で知ったんですが、このひとは柴田元幸や大西巨人との仕事をしているひとだったんですね)からの返事を営業部経由のFAXで受け取りました。これは、『黄色い雨』の読者であれば、知っておくべきことでもあるはずだと思うので、一部をここに公開することにします。
この後、『黄色い雨』について、ソニーマガジンズの営業担当者によれば、私の指摘した先の二点に関しては、以後版を改める際に修正する、これまでに刷った分に関しては正誤表を挿み込む、ということだったと記憶していますが、いまだに確認をしていません。 さて、まだ話はつづきます。 郷さんからの回答を受けて、私は彼にメールを送りました。そのなかで、こう書いています。
郷さんからの返信にはこうありました。
── と、実際にこういうことがあるわけです。 そこで、私の考えているのはこういうことです。 まず、『黄色い雨』の読者のどれだけが、私の指摘した三点に気がついたか、ということですね。それは、いったいどういう読みかたを(『黄色い雨』の読者ですら)しているのか? という疑問でもあります。(『黄色い雨』の読者ですら)そういうレヴェルでの読みかたしかできていないのか? ということです。 さらに、それらに気づいた読者のどれだけが出版社にそのことを指摘したか、ということです。私はいいますが、気づいたなら、必ず指摘すべきです。誰かべつのひとが指摘するだろう、などと悠長なことを考えていては駄目です。なぜなら、自分の後にもこの本を読むはずのひとがいるだろうからです。そのひとたちのこと(それとともに、その作品のこと、その作者のこと)を、もっと考える必要があります。先のヴォネガット『母なる夜』(池澤夏樹訳)にしても、指摘しなければ、将来の読者も、その作品自体も、ヴォネガット自身も不幸じゃないですか。でしゃばりとか、僭越とか、そういうことじゃないんですよ。私が鬼の首を取ったようにはしゃいでいるように見えますか? 全然違います。 もうひとつ、これも必ずいっておきたいんですが、この本の帯を書いた柴田元幸や、この本をいろいろな場所で推した「文芸評論家」たちはどうだったのか、ということです。 出版前にその本のゲラを渡されたことのあるひとにはわかりますが、これはまだ校正中の文章であって、誤字・脱字等もあり得るという断わり書きのついているものがあるんですね。だから、断わり書きがない場合にも、そういう前提で読むということがあります。誤字・脱字等を見つけても、この後の校正によって修正されるはずだということで読むわけで、わざわざ編集者に告げたりしないんです。そういう事情はわかります。しかし、余計なお世話かもしれなくとも、やはり気づいたら、読んだひとは報告すべきだと思いますね。 しかし、私が心配しているのは、たとえば、この『黄色い雨』の場合では柴田元幸ということになりますが、指摘するしない以前に気づいていなかったということがあるのかもしれない、ということです。この本をいろいろな場所で推した「文芸評論家」たちもです。 ここに、ある作品を自分で選んで読むということと、依頼されて(仕事として)読むこととの差を考える余地があるのではないかと私は考えるんですね。 たとえば、ある本の帯に署名入りで推薦の文句を書いているひとたち(作家・文芸評論家・その他有名人)は、それで報酬を受け取っていると思うんです。で、その「作家・文芸評論家・その他有名人」たちは、「この本を読んで、推薦文を書いてください」という依頼を受けるんでしょうか? 私の考えているのは、それで、作品が駄目だった場合、いったい彼らはどうするのか、ということなんです。これをいい換えると、彼らは推薦するために・つもりで・前提で読むのか、ということにもなります。それで、もちろん私は、推薦するために読んではいけない、と考えるわけです。読んだ作品が駄目ならば、仕事を断われ、ということです。それがどこまでできているのだろうか、と思うんですね。かなりの割合でできていないのではないか、と私は疑っているんですけれど。もし、これができているのだとすると、その推薦人の読み取りの力を疑わなくてはならないほどのものが多いと思っているんです(そうでなければ、彼らがいかに読者の読書レヴェルを低いところに考えているか、ということになりますね。馬鹿にするな、といいたい)。 反対に、その「作家・文芸評論家・その他有名人」たちは、作品が不特定多数に推すべきほどのものだと感じるほどの読書をしたなら、誤植や誤訳なども見つけておいてほしいんですよ。見つけたなら、必ずすべてを編集者に伝えてほしいんです。それでこそ、出版後に読むことになる読者のためになるわけです。 最後にもうひとつ。先に私は、
といいました。たしかにあのとき私はその通りに驚いたので、そういったわけなんですが、しかし、そんな私のいいかたもよくないんですね。というのは、木村榮一さんがいかにすごいひとであろうが、読者としては、遠慮や卑下は余計であるばかりでなく、してはならないことだからです。作品の読みのためには、読者は作者や翻訳者と対等だと考えなくてはなりません。 |