「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九 1 さて、「その四」・「その六」で、私は『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置・意味を問題にしました。「その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストという存在ですね。それは、この作品における「愛」にふた通りある ── 「人類全体」を愛するもの(大審問官に代表される)と、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛するもの(キリスト) ── ということから導き出されました。私は、キリストの愛 ── 人間に「自由」を与える ── がどれほど大きいものであって、人間にそれを受け入れることがどれほど困難であるかを、キルケゴールの『死に至る病』を引用しながらしゃべりました。そうして、『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置・意味をまったく理解できていない亀山郁夫の「キリスト僭称者説」を否定し、キリストのキスが大審問官への「承認・祝福」だという説をも否定しました。 もう一度キルケゴールを引用しておきます。
それで、私は上の引用を受けてこういいました(「その六」)。
あなたは『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、登場人物の誰かが ── ものすごくおおざっぱにいいますが ── 、「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」というふうに考えることによって、自分自身と他人とを傷つける言動をしてしまう、そうしてそれがやがて取り返しのつかないことになっていく、というのをさんざん見てきたのじゃないでしょうか? 「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」 ── それが、その人物の自分自身に対する「嫉視」であり、「悪意」なんですよ。その人物が ── いろんな事情もあるでしょうが ── 自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を抱え込んで離さないでいること、ですね。この態度が、せっかくさしのべられた《ただ一人の罪なき人》とそれに準ずるひととの手を拒みます。単純にいえば、「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」というふうに考えるひとが、他人の好意を否定し、極端な場合には、それを踏みにじって自分と他人とをひどく傷つけるということです。こういってしまうと、この世のなかのほとんどの小説がそうだよ、といわれてしまいそうでもありますが、しかし、『カラマーゾフの兄弟』は、おそらく執拗に登場人物たちと《ただ一人の罪なき人》との「応答」を描いて、ものすごく動的な作品として成立していると思うんです。 いくつか引用をします。 まずスネギリョフ。
この後で ── 直後ではありませんが ── スネギリョフは自分が「卑劣漢」ではないことを納得して ── アリョーシャが彼に「謙遜な勇気」を与えたんですね ── 金を受け取ることになります。 そうして「神秘な客」。
この「神秘な客」にはゾシマが、妻子や世間のひとたちの前でなく、神の前に立つことを説きます。これまた直後ではありませんが、「神秘な客」は「謙遜な勇気」を持ってその通りにします。 ここで思い出しておきたいのが、スメルジャコフのこれですね。
これも引用しておきましょう。
さて、またべつの例 ── 必ずしも適切ではありませんが、けして無関係ではない例 ── を挙げておきますが、
それから、これですね。
いくつか例を挙げましたが、「謙遜な勇気」を持てずにいる彼らに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめない人物たちがいるんですね。つまり、誰かが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめない人物たちです。この人物たちが、そうやっていられるのはどうしてなのか? どうしてそこまでできるのか? ── と、あなたが感じただろうと私は信じます。 たとえば、他人の自己申告について向けられた「あなたじゃない」。
あるいは、他人と、そして自分自身にまで向けられた「あなたじゃない」。
さて、アリョーシャは「第七編 アリョーシャ」中の「ガリラヤのカナ」でこう描かれます。
私は「その二」で ── アリョーシャの「あなたじゃない」をめぐって ── こういいました。
そこでの、「自分のために祈ってくれる」を、私は上の「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」を想起しながらいったんでした。 そして、もうひとつ、もちろんこれをも想起していました。
「その一」では、私はこうもいいました。
「背後に」ということばを私が使ったのは、イワンからアリョーシャを見るとそうなるということだったんですが、ここではその視点を切り替えます ── アリョーシャが誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるのには、彼の前に・彼と並んで・彼のなかに《ただ一人の罪なき人》=イエス・キリストがいるからです。アリョーシャ自身にキリストと同じことができるわけじゃありません。「その六」で触れましたが、アリョーシャはイワンとの会話で「銃殺です!」といい、「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」といい、「いいえ、承諾しないでしょうね」、「いいえ、認めることはできません」というわけです。それはそうなんですが、それでも彼は、自身にはなしえないことでも、かつてなしえたし、いまもなしつつある《ただ一人の罪なき人》を信じているんです。彼の前に・彼と並んで・彼のなかに《ただ一人の罪なき人》はいます。アリョーシャは自身の限界を承知しているでしょうが、それでも《ただ一人の罪なき人》がいる ── 自分の前に・自分と並んで・自分のなかに ── と感じるので、誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるんです。そうして彼には、この世界のどこかに、たとえ彼がその人をまったく知らず、先方も彼を知らぬにしても、彼のために祈ってくれる・彼を愛してくれるひとがいることを信じているんです。彼はそうしたつながりを信じています。だから、彼も誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるんです。どうでしょう? これはすごいことじゃないでしょうか? アリョーシャにはそういう「謙遜な勇気」があると私はいいます。 「つながり」ということでいえば、これも引用しておきましょうか。ミーチャのこれです。
イワンはどうかというと、彼には、この世界のどこかに、たとえ彼がその人をまったく知らず、先方も彼を知らぬにしても、彼のために祈ってくれる・彼を愛してくれるひとがいることなど信じられません。彼にあるのは「離反」と「孤独」です。
もちろん、上の引用の直後はこうです。
イワンは「大審問官」で《ただ一人の罪なき人》の愛が人間にはあまりにも大きすぎ、高すぎたと主張したんでした。イワンは《ただ一人の罪なき人》から「離反」し、「孤独」のなかへと進み・沈みます。彼は誰に対しても自身を閉じます。
私はイワンがキリストを信じているといいました。しかし、それは単に理解しているというだけで、信じているということにならないかもしれません。
しかし、こういう会話もありましたね。
そうして、また ──
あるいは、
イワンはキリストを信じていた、と私は繰り返しましょう。ただ、彼には「謙遜な勇気」がないんです。彼は躓きます。しかし、「こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心」は実は信仰に最も近いところにあるでしょう。もうあと一歩なんです。そういうイワンだからこそ、アリョーシャの「あなたじゃない」に反応できるんです。 「そのあいまいさにすべての文学的真実が含まれている」(亀山郁夫)なんてことをいうのなら、こういうところでいってほしいものです。 |