「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九 3 つづけます。亀山郁夫はNHKテキストでこう書いています。
「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです。」その亀山郁夫が「解題」で何と書いていたか?
スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」(NHKテキスト)と、「二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」」(「解題」)との関係をどうか説明してください。どうなっているんですか? スメルジャコフの「ひとこと」によって「イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくる」のに「一ヶ月」がかかったといっているんでしょうか? 「解題」で、彼はこう書きさえしていました。アリョーシャの「あなたじゃない」の直後、スメルジャコフとの「三度目の面会」についてです。
どうなっているんですか? スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」なんですか? それとも、「三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である」なんですか? また、「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」なんですか? それとも、「イワンに狂気が訪れてくる。まず、その最初の兆しが正確に書きとめられている」なんですか? 答えてほしいですね。まあ、それでも亀山郁夫はこう書いてもいましたっけ。
一応「悪魔」云々に触れてはいましたね。とはいえ、この文章でいきなり「悪魔」を持ち出すことのおかしさについては、「その一」でいいました。しかし、それでも亀山郁夫にとっては、アリョーシャの「あなたじゃない」がイワンに図星ではなかったわけですし、「あなたじゃない」が「あなたである」という意味だなどということになっているわけで、そんなひとに「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間」だなんていえるはずがないんですよ。いえますか? それで「解題」の文章になるんですか? それで、そもそもの自分の読み取り ── それによって『カラマーゾフの兄弟』を訳したんです ── を保持したまま、なんとかその誤りを取り繕うことができないだろうかということで、このNHKテキストに「とってつけた」のが「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」なんですよ。そう考えないとおかしいでしょう(ここでまた、実際のNHK講座で彼がどうしゃべっていたかという話になるわけですが、これについては「2」でいいました)。 いや、しかし、ちょっと私は混乱しています。ここで私は亀山郁夫の「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」だけをNHKテキスト作成時に「とってつけた」ものだとしてしゃべるつもりだったんですよ。つまり、以前(「その五」)に触れた「それこそは、ゾシマが修道院にはいる最初のきっかけとなった経験でした」や、今回指摘した「あるいは、イワンが、真犯人は自分かもしれない、という思いに達しつつあることを見越し、その認識に至る苦しみを見越して、赦しと励ましを与えようとしていたのかもしれません。事実、この時点でイワンは恐ろしい不安にかられ、悪魔の来訪すら受けていました」と同じように、「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」だけを問題にしようと思っていたんです。ところが、「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」に絡んで、このNHKテキストと「解題」との「とってつけた」くらいでは収まりきらない大きさの違いを見つけてしまったんです。「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」云々を実際に亀山郁夫はNHK講座でしゃべっているのじゃないでしょうか? 「未必の故意」云々を彼はしゃべっているのじゃないでしょうか? いや、このテキストが実際の放送と恐ろしくかけ離れた内容に修正されているのなら、それでいいんですが、しかし、規模が大きすぎるのじゃないかと思うんです。スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」(NHKテキスト)なんですか? それとも、「三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である」(「解題」)なんですか? 混乱した私は、自分で腰が抜けそうな ── いわば亀山郁夫ばりの ── 想像をせざるをえないんです。しかし、それをいう前にまだ少しつづけます。 亀山郁夫はNHKテキストでこう書いています。
「今回の冒頭に引用したテクストの場面」とは、イワンとスメルジャコフとの「三度目の対面」です。 それで、ついさっきに引用したものをもう一度。
亀山郁夫の頭のなかでは、どうやらイワンとスメルジャコフとの「三度目の対面」と「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」とがセットになっているようなんですね。これではまるで、アリョーシャの「あなたじゃない」を聞いた後、スメルジャコフの家に向かう間に「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」という自問があったみたいじゃないですか。 私は原卓也訳を引用しますが、
「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》彼はそう自問した。すると、何か遠い、しかし焼けつくような感覚に、ちくりと心を刺されたような気がした」(亀山郁夫訳)と「『心の中では、俺も同じ人殺しだからではないだろうか?』彼は自分にたずねてみた。何か間接的ではあるが、焼きつくようなものが心を刺した」(原卓也訳)との違いも気になりますが、それはともかく、いったい亀山郁夫には、「三度目の対面」と「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」との時間差が理解できているんでしょうか? それとともに、「三度目の対面」への言及のなかでのこの文章。
「アリョーシャが以前にはなった暗示的な言葉」の「以前に」というのは何でしょう? アリョーシャの「あなたじゃない」は作品内時間では「ついさっき」の言葉なんですよ。亀山郁夫自身、先に引用したようにNHKテキストでこう書いていました。
「解題」でのこの「以前に」については、私は最初から ── つまり、この七月から ── 気にはなっていたんですが、『カラマーゾフの兄弟』において「あなたじゃない」の記述と「三度目の対面」との記述との間に比較的長い文章が入るために、読者 ── おそらくは初読の ── に配慮した亀山郁夫がそうしたのだと考えていたんです。しかし、ですね、いま、私はこれが実はやはり亀山郁夫自身の認識だったのじゃないかと考え始めているんです。 私は何をいおうとしているでしょうか? 先に私のいった「自分で腰が抜けそうな想像」とはどういうものでしょうか? いいましょう。 亀山郁夫には、そもそも「解題」執筆時 ── ということは『カラマーゾフの兄弟』訳出時 ── で、アリョーシャの「あなたじゃない」がイワンとスメルジャコフとの「三度目の対面」の直前のことだというのがわかっていなかったのじゃないでしょうか? いや、これがどんなに「自分で腰が抜けそうな想像」かは承知しています。しかし、そうだとしか思えないんです。つまり、「第十一編 兄イワン」における記述に、「あなたじゃない」以降、作品内時間を遡ってイワンとスメルジャコフとの二度の対面があり、さらに「あなたじゃない」を追い抜いて三度目の対面があるということが、亀山郁夫には理解できていなかったのじゃないか、と私はいっているんです。「解題」がめちゃくちゃなのは、そのためじゃないでしょうか? それで、『カラマーゾフの兄弟』全五巻を出版した後で、いろいろな場所で講演などをするうち ── 聴衆に向かってあらためて解説をしようとして当該部分を読み返すうち ── に、亀山郁夫に「第十一編 兄イワン」の本当の時系列がはじめて明らかになり、「三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である」(「解題」)が、スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」(NHKテキスト)へと変更されたということなんじゃないでしょうか? いやはや、私は自分で腰が抜けそうです。 もし私の「自分で腰が抜けそうな想像」が正しいなら、私はなんという低脳をここまで相手にしてきたんでしょうか。 |