「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九 4 さらにつづけます。
いったいこれは『カラマーゾフの兄弟』についての文章なんでしょうか?「イワンとスメルジャコフがめざしたのが完全犯罪」って何ですか? 「完全犯罪」? いつ「めざした」んですか? 亀山郁夫はこのテキストの数ページ前でこう書いていたんですよ。
この文章自体にも大いに問題はあるんですが、それはさておき、亀山郁夫自身がそんなふうに語るイワンがいつ「完全犯罪」を「めざした」んですかね? そもそもここで「めざした」だの「完全犯罪」とかいうのがおかしいんじゃないでしょうか。私はこれに非常な違和感を覚えます。「イワンとスメルジャコフ」のことを考えるとき、私には「完全犯罪」などということばを彼らにつなげることがどうしてもできないんですね。『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、「完全犯罪」ということばが私に浮かんだことなんかありませんでした。『罪と罰』でも同じです。私にはラスコーリニコフが「完全犯罪」を「めざした」ようには全然思えませんでした。彼がただ殺人の計画を立て、実行し、自分が犯人であることを隠そうとしたというふうにしか読めなかったんですね。いや、それが「完全犯罪」を「めざした」ということなんだよ、 ── それは本当ですか? 両者は同じものでしょうか? 私は同じでないと思っているんです。登場人物が「完全犯罪」を「めざした」というふうに読者に読まれる小説は、そう読まれるように描かれている・そういうつくりをなしているでしょう(たぶん、この問題にはその作品の倫理性が関係してもいるはずだと私はいっておきましょう)。『カラマーゾフの兄弟』はそういうつくりをなしていないと私は思います。いや、「イワンとスメルジャコフ」が「完全犯罪」を「めざした」というためには、『カラマーゾフの兄弟』という作品の外部 ── 当の作品自体はそんな読み取りを読者に導かない ── から余計な何かを持ち込むことが必要なのじゃないか、それは作品の矮小化だ、と私は疑います。 ともあれ、せせこましい指摘をするなら、こういうことです。いまの場合にでも、亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』における「罪」が人間社会で制定され、成文化された「犯罪」かどうかという視点しかないんです。 それで、イワンの罪が法的に引っかからないとすれば、ということで亀山郁夫のいいだすのが「ドストエフスキーはそこにこそ、人間が犯しうる最大の罪を、原罪を見てとったにちがいありません」なんですけれど、「人間が犯しうる最大の罪を、原罪を」ってどういうことですか? 亀山郁夫は「原罪」を何だと思っているのか? いいですか、繰り返しますが、人間=罪あるものなんですよ。人間であるからには「原罪」を抱えているんです。亀山郁夫には「原罪」の意味がまるきりわかっていません。だから ── これも繰り返しですが ── 、アリョーシャが「どんなことがあっても、原罪をまぬがれてはいない。アリョーシャのキスはまさに犯罪です」(『ロシア 闇と魂の国家』)なんてことをわざわざいったりすることになるんです。彼は「原罪」を、まるでそれを人間が行為として選択できるもののように考えているんですね。 さらに、「そしてその「使嗾」にこそ、イワンの説く無神論の最大の論拠があったとみてよいのです」というのは何でしょうか? まったく意味不明です。いや、さすがに私にもお手上げです。何ですか、これは? 「無神論の最大の論拠」── ? 見当もつきません。亀山郁夫にもきっと説明できません。彼が説明したとしても、それがどうして「無神論の最大の論拠」という表現になるのか? とこちらがいいさえすれば、彼はしどろもどろになってしまうのじゃないでしょうか? しかし、そのようにまったく意味不明なんですが、これで「なるほど、そうか! いや(私にはわからないけれども)、亀山先生はさすがだ!」と膝を打つような読者もあることでしょう。そういうひとは確実にいますね。自分で考えることを放棄してしまったひとたち、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということしか考えられないひとたち、世のなかにベストセラーを成立させている読者たちですね(こういうひとたちなしに一〇〇万部単位のベストセラーは成立しません)。
いや、そんなことでは駄目なんですよ。『カラマーゾフの兄弟』は、あなたが自分で読んで、自分で考えなくちゃならないんです。それがあなたの読書です。他人の読み取りを自分の読み取りにしてしまっちゃいけません。誰の前にもひれ伏さずに、自分の読み取りをしていかなきゃいけません。たとえ「みんな」がひれ伏そうが、あなたは全然そんなことをしなくていいんです。 亀山郁夫の読書はどうでしょう? 彼は自分の読書をしました。だから、それでいいんじゃないでしょうか? その通りです、それが彼の私的な読書であれば。しかし、彼の読書はいま公的なものです。「翻訳」が「社会的責任を伴う」と彼自身いっているんです。しかも、その「翻訳」について、いろんなところでしゃべったり、書いたりしているわけです。彼は自分の私的な ── 低レヴェルの・でたらめな・とんちんかんな ── 読書を公的なものにしました。 というわけで、亀山郁夫によるNHKラジオの講座をひとことも聞き漏らさずにいようとするお勉強好きな聴取者の方々にいいますが、こんなでたらめな講座を聞いてもしかたがないですよ。というより、あなたにとっては害悪ですらあります。あなたはあなたで『カラマーゾフの兄弟』を自力で読むより他ないんです。自力で読んでこそ、あなたの読書なんです。「有名無実な先生」の講義なんかに頼っていてはいけません。 話を戻します。 イワン・カラマーゾフに悪魔はこういいました。
私はイワンのためにいっておきますが、イワンの「無神論」── 実は「無神論」なんかじゃないですが ── からすれば、「法律は存在しない!」んですよ。亀山郁夫はイワンの思想をものすごく矮小化しています。イワンの《すべては許される》を、法的にどうかなんてこそこそした視点からしか見ることができていないんです。 それから、これもいっておきましょう。
亀山郁夫がいうのは、この場面のことですね。
それで、亀山郁夫は「ドストエフスキー、いやイワン」が、と口をすべらせたふりをしつつ、「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」となんだか力んで・考え深げに・思わせぶりに ── お涙頂戴風に、自ら目頭を押さえつつ(かどうか知りませんが) ── いって、「その意味で、このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです」と見得を切った ──「なるほど、そうか! いや、亀山先生はさすがだ!」が聞こえてきそうです ── わけですが、いいんですか、それで? この裁判の前日 ──「あなたじゃない」の前 ── にアリョーシャがリーザとこんなふうに話していたんでした。彼女のところにイワンがやって来ているということをアリョーシャはホフラコワ夫人から聞いたばかりでした。
これは、リーザの自前の考えですか? アリョーシャがこのとき誰のことを考えていましたか? たとえば「よくない本」といいながら、その実、誰を想像していたんですか? この会話はこの後、どうつづきますか? そもそもアリョーシャはなぜここでリーザと話していたんでしたか? いや、法廷でのイワンのことばがどのように読者に導かれるかというと、いわば空中分解してしまった彼の思想の残骸が散乱しているだけなんじゃないでしょうか? しかも、「だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ」から「僕は二秒間の喜びのためになら千兆キロの千兆倍だって捧げますよ」までの彼の発言の順番は、彼がこれまでに他人の前で口にしてきたことから、内面にだけ秘めていたものへと次第に移行しているのじゃないでしょうか? イワンについて、私は「その三」でこういいました。
そういうわけで、法廷でイワンがしゃべったのは「自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分」から、次第に彼のしがみつこうとしている(「それこそが私なんだ」)部分へと移行していったのじゃないでしょうか? 簡単にいえば、軽いものから重いものへの移行です。だから、「だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ」という発言に、亀山郁夫の考えているような重量はない、と私はいうわけです。そうして、「父殺し」という『カラマーゾフの兄弟』を読み説くためのひとつのテーマを他のどんなものより優先したい亀山郁夫が、ここで無理やり芝居がかった身振りをしつつ、こじつけをし、聴取者・読者をたぶらかそうとしているのじゃないかと私は疑うんです。 いや、それでも、「みんなは、父親殺しという点が気に入っているのよ」というリーザのことばがイワンの発言の請売りだなんてどこにも書かれていないじゃないか、だから、いまのは彼女の自前の考えなんだ、イワンは関係ない、といいますか? そうだとして ── そうじゃないですが ── 亀山郁夫は、登場人物がとっくにしゃべっていたのと同じことをイワンが法廷で口にしたのをとらえて、「彼は、この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした。その意味で、このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです」なんていうんですか?「いや、亀山先生はさすがだ!」 ところが、ところが! 亀山郁夫は「解題」にこう書いています。
いったい、このひとは何をやっているんですか? 亀山郁夫はNHKテキストでリーザのことばに全然触れていません。それで、なんだか力んで・考え深げに・思わせぶりに ── お涙頂戴風に、自ら目頭を押さえつつ(かどうか知りませんが) ──「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」なんていうわけです。しかも、これが「ドストエフスキー、いやイワンに言わせると」なんですよ。イワンが「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」と指摘することで、亀山郁夫は、こういう形 ── 「幻覚症」のイワンに託す形 ── でようやく作者ドストエフスキーが自身の個人的な思い(「自伝層」)を作品にぎりぎり吐露したのだ、といいたいんですね。そうして、これが『カラマーゾフの兄弟』における重大なテーマ「父殺し」なんだというわけです。 その亀山郁夫が、このイワンの台詞の、とっくにリーザによって口にされていることを承知しているわけです。何が「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」ですか? 何が「このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです」ですか? 何が「ドストエフスキー、いやイワンに言わせると」ですか? これは一種の詐欺じゃないでしょうか? これはうそ泣きじゃないですか? こういうのを「二枚舌」というのじゃないですか? いったい、亀山郁夫は何をやっているんでしょうか? NHKの講座のタイトルは「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」なんですよ。となれば、彼は自分の訳した『カラマーゾフの兄弟』および自分の著した「解題」とを、聴取者が読むという前提で講義しなければならないはずです。それなのに、なぜこうも ── この文章の「3」でも指摘したように ── 講座のテキストと「解題」とが食い違うんですか? 私はいいますが ── 、
── いっそのこと、亀山郁夫はこういったらよかったんじゃないですか? イワンは自分でもまったく考えつかなかった「父殺し」についての見かたを、リーザから教わったのである。リーザこそドストエフスキーの「自伝層」の代弁者であったのだ! どうですか? この可能性にどうして亀山郁夫は飛びつかないんですかね? 亀山式読解だったら、そうあるべきですよ。もうこれまでもさんざんそうやって『カラマーゾフの兄弟』を読んできたわけですからね。「いや、亀山先生はさすがだ!」 それにしても、「あの人がお父さまを殺したことを、みんな喜んでいるの」、「口では、恐ろしいとか言いながら、内心ではもう大喜びなの」というリーザの認識を亀山郁夫はどうやらすごいものだ ── これこそ『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」の核心だ! ── と思っているみたいなんですね。でなければ、彼女とイワンとを並べて「二人は、同時に人間の欲望の根源にひそむ「父殺し」の衝動を見抜いていた」なんてことをいうはずがありません。しかし、これがそんなに重要な認識なんですか? もう一度、イワン。
もう一度、リーザ。
イワンもリーザも「父殺し」についてしゃべっていて、亀山郁夫がそれに飛びつくのはわかりますが、私にはふたりのことばが「父殺し」を扱いつつも、それがたまたま「父殺し」が話題になっているからそうしゃべったのであって、むしろこちらの方 ── イワン、リーザ独自の認識というより、『カラマーゾフの兄弟』全体に染み込んでいる認識 ── に近いと思えるんです。
また、
アリョーシャがリーザとの会話でこういいもするんでした。
あるいは、
それを受けて、リーザはこういうんでした。
さて、この二か月前にイワンとアリョーシャはこういう会話をしていました。
いいですか、リーザもイワンも話す相手はともにアリョーシャです。 ここで「犯罪を好む」(リーザ)と「相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまう」(イワン)の違いを問わずに、あるネガティヴなことについての「人間」がどういうものかという点で考えることにして、ふたりのことばを混ぜ合わせてこういい換えることができないでしょうか? ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起こる(=人間にはそういうことの起こる「瞬間」がある)のか、それとも人間の本性がそういうものだから起こる(=そういうことの起こる「瞬間」があるどころか、人間にはそれが「いつだって」起こっている)のか、という点なんだ。 そうして、リーザもイワンもアリョーシャに対して、そういうネガティヴなことが人間の本性だから起こる(=「いつだって」起こっている)というんです。リーザは確かにイワンから人間の「本性」についての嘲弄的なことばを聞かされていたでしょう。しかも、フョードル殺害についての言及のなかで。それで、聞いて魅力的だと感じこそすれ、いままでリーザ自身にも曖昧なままだったイワンのことばがアリョーシャとの会話によってはっきりした手応え・確信に導かれたでしょう。だから、「そう、そうよ! あたしの考えをぴたりと言ってくださったわ」というのは「イワンのいっていたのはそういうことだったんだ! 今こそ私には理解できた!」という意味でもあるでしょう。 そういうわけで、イワンはなにも法廷で初めて ── しかも「幻覚症」によって ── 「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも、俺だって立派なもんだ!」といったのではありません。亀山郁夫の、ドストエフスキーが自身の個人的な思い(「自伝層」)のぎりぎりの吐露を法廷でのイワンに託した「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」などという主張はでたらめです。 さて、人間の「何か立派なものを踏みにじりたい」(アリョーシャ)という欲求がどこから生じるかというと、これは以前に私がいった「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」という自分自身に対する「嫉視」・「悪意」からですね。そういう自分自身に対する「嫉視」・「悪意」は、他人が「立派」でなければないほど楽になるんですね。他人を引き下ろせば下ろすほど楽になるんです。「どうせあんたたちだって裏じゃこんなふうなんだろう?」、「どうせあんたたちだって叩けば埃の出る身体なんだろう?」、「あんたたちも私も同じ穴のむじなじゃないか」ということですね。そうやって他人の位置を引き下ろすことで、自分を正当化できるわけです。足の引っ張り合いです。それは、自分が「立派」でありたいけれど、そうできない、ということを正当化します。自分自身に対する「嫉視」・「悪意」です。 『カラマーゾフの兄弟』は、そういう自分自身に対する「嫉視」・「悪意」と、それを否定するものとの「応答」の小説です。この「応答」が作品内の絶え間ない運動として機能しています。各登場人物が自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を抱え込んで離さないでいること(「罪」)に対して ── 《ただ一人の罪なき人》に遡及することのできる ──「あなたじゃない」が応えるんですね。 イワン・カラマーゾフはこういっていました。
人間をこのように軽蔑するイワンに、法廷での傍聴人たちがどのように見えたでしょうか?
イワンには自分だけの知っている ── 愚かな人間たちの知らない ──「真理」=《すべては許される》があったわけです。それがこの法廷でどんな目で見られているか、どんな扱いを受けているかというと、『パンと見世物』── もちろん「大審問官」が想起されなくてはなりません ── にされてしまっているんですね。「とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも、俺だって立派なもんだ!」。イワンにとって、これは恐ろしい屈辱ですよ。なにしろイワンは「真実の裁可」を必要とする人間なんですから。彼は自分が大事にしてきた思想がこうも愚劣な、ちっぽけな、まるで尊敬を受けないものになるだろうとは考えられなかったんですね。傍聴人たちの「本性」を刺激し、満足させるためだけの ── 欲情の ── 対象にされてしまったんです。これはイワンにとってたまらないことです。前夜、彼は悪魔としゃべった後、アリョーシャにこういっていました。
法廷でのイワンの発言にはそういう意味しかないだろうと私は思います。そこにはイワン自身の抱えている苦悩のあらわれ ── 彼の軽蔑する他人・社会を前にした ── があるだけで、苦悩そのものはありません。 つまり、私がいいたいのは、亀山郁夫の主張するイワンとリーザの認識は『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」についてのただの・ほとんど表層の一側面にすぎない、ということです。これをこの作品における「父殺し」の正面に据えるのには無理がある ── 亀山郁夫はこれを針小棒大に扱っている ── ということです。 またも引用しますが、
この文章について、私は以前「その二」でこういいました。
私は亀山郁夫が『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンにとっての「父殺し」を「物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望」── 「原罪」を絡めて ── などというところに落ち着けてしまうことに呆れています。ここまでイワンの叙事詩「大審問官」でのキリストが偽者であるとか、キリストのキスが大審問官の思想・行為への承認・祝福であるとか大風呂敷 ── 穴だらけの、ですが ── を広げていたひとが、結局この叙事詩作者イワンの末路をこんな薄っぺらな・どうでもいいところへ落ち着けてしまうんですか? そもそもイワンという人間をまったく読み取れていないひとだから無理もないですが、笑っちゃいますよ。まったく不愉快な大笑いで、やりきれなくなります。 亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」を過大に扱いがたいために、また、それを作者ドストエフスキーの個人的体験と結びつけたいがために、さらに、それを自分の「発見」── これは、「発見」といえばいうほど彼自身の馬鹿さ加減がどんどん露呈するんですけれど、本人には全然わかっていません ── だと主張したいがために、実はこの問題を矮小化しているんですよ。 亀山郁夫のいう「物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望」なんてことはイワン・カラマーゾフの内心じゃありません。なぜ彼はイワンをイワンとして読まないのか? 亀山式読解にしたがえば、ここでイワンはべつにイワンでなくてもよくなってしまいます。イワンという人間が突然、普遍化・一般化された「人間」に還元されてしまいます。イワンが「人間」の典型的な一例に落とし込められてしまうんです。もしここで普遍化・一般化を行なうならば、それは普遍化・一般化された「人間」がイワンの位置にまで上がっていかなくてはならないんです。 これはイワンについてのことばではありませんが、
── と『カラマーゾフの兄弟』の語り手がいうとき、語られる奇人の行動はやはり読者にとっても奇行であるはずなんですよ。読者には、この奇人がなぜそのような行動に及ぶのか理解しがたいはずなんです。ところが、よくよく考えてみると、その奇行に「全体の核心」(「普遍的な意味」)が読み取られるんですね。しかし、当の奇人本人にとってみれば、彼はなにも読者の読み取る「全体の核心」(「普遍的な意味」)のために行動しているわけじゃないんですよ。彼には彼の苦悩があり、喜びがあるんです。読者はまず、描かれているそれをそのまま読まなくてはなりません。そのまま読んでこそ、読者はそこから「全体の核心」(「普遍的な意味」)を読み取ることになるでしょう。 亀山郁夫はこの奇人本人に読者の読み取る「全体の核心」(「普遍的な意味」)を押しつけています。 読者はイワン・カラマーゾフだけに目を向けなくてはいけません。イワンもミーチャ同様にフョードルについて「こんな男がなぜ生きているんだ!」と思っていたでしょう。フョードルが殺されてもかまわないと思っていたでしょう。そのフョードルは彼の父親でもありました。フョードルが自分の父親だからこそ、余計にその思いが募りもしたでしょう。しかし、これはいま私のいった順番で考えられるべきことなんですよ。そうして、『カラマーゾフの兄弟』の読者は、まず何よりもフョードルとイワンとの個別の・独自の関係だけを読まなくてはなりません。 『カラマーゾフの兄弟』で描かれているのは、教訓的な意味での普遍化・一般化された父と息子の関係ではありません。小説作品を読むとは、そういうことです。それを後で普遍化・一般化してフロイト ──「まさしくフロイト的である」── のようなことを考えるのは自由です。しかし、まず『カラマーゾフの兄弟』に書かれていることだけを読まなくてはいけないんです。読者はイワンの内心だけを読み取らなくてはいけません。イワンの認識が「「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている」ですって? まったく、亀山郁夫はどれだけ自分の読解力のなさを披露してくれたら気がすむんですか? イワンという人物が平板に、ちっぽけに、書割のように存在感のないふうに描かれている駄目な作品になら、そういう読み取りでもかまいませんよ。そうじゃないでしょう? イワンの苦悩はイワンの苦悩として読まなくちゃいけません。 私はいいますが、『カラマーゾフの兄弟』は「人間の欲望の根源にひそむ「父殺し」の衝動」のことを描いた小説ではありません。 |