「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇 4 ── ちょっといいたいんですがね。いましがたあなたが引用したXTC ですが、あれにつづくのはこういう歌詞じゃないですか。
そうですが。 ──「そうですが」じゃないでしょう? いまの部分をあなたはわざと隠蔽したんじゃありませんか? どういうことです? 何がいいたいんです? ── 何って、「Doesn’t matter what it said」なんでしょうが。たとえ亀山郁夫のものだって「the printed word should be forgiven」じゃないですかね? ああ、なるほど。そういうことか。またしてもあなたは線引きを間違えていると思いますが、答えましょう。 私は『カラマーゾフの兄弟』が亀山郁夫によって焼かれている、つまり、冒涜されている、その冒涜を知っていながら、それを歓迎し、さらに助長するようなことをするひとたち、見て見ぬふりをするひとたち ── ということは彼らも『カラマーゾフの兄弟』を焼いているわけです ── のいることを考えていたんです。自分たちのしていることの意味がわかっているのか、ということです。そんなことでは、「People are next」だ、と。そのことだけ ── というか、「text」‐「next」と韻を踏んで、あそこで一区切りですしね ── を考えて、私は引用をあそこまでにしました。そこで私は亀山郁夫のものを「books」のうちに数えていませんでした。とはいえ、書物が焼かれるとき、すべての書物が焼かれるわけではありません。焼く側の者たちの書物は無事なんじゃないでしょうか。 しかし、たしかに亀山郁夫のものであろうと、「the printed word should be forgiven」でしょう。あなたは「言論・出版の自由」の話をしたいんですか? それじゃ、私はこれを引用しましょう。
どうですか? 私自身はチョムスキーの本をひとつも読んではいないんですけれどね。しかし、亀山郁夫の主張にも「発表する権利」があることは認めますよ。現実にいくつもの著作が発表されているわけです。でもね、そうやって発表されたものがそのまま何の批判も被らなくていいはずもないんです。批判はどんな場合にも必要なんです。「発表する権利」がある以上、発表されたものは批判されなくてはなりません。いいですか、この場合の批判というのは「駄目だ」というものだけじゃなく、「よい」・「素晴らしい」をも含みます。「発表する権利」というものは、常に鍛えられなくてはなりません。どんな主張も批判を受け、それに答える用意がなければ駄目です。そうやっていつでも論争が繰り広げられるような自由な環境こそが、実はいっそう「発表する権利」を力強く支えるはずなんですよ。そういう盛んな批判のなかへと出してかまわないといいうるものだけが発表されるようになればいいと私は考えます。だから、発表されるものは、常にあるレヴェル以上のものであるべきだと私は考えます。そうして、発表されたものを「よい」・「素晴らしい」と推すひとたちも、必ず批判にさらされなくてはなりません。その覚悟なしに安易に「よい」・「素晴らしい」などと口にすべきではないんです。無邪気でいてはいけません。無邪気なら罪がないだろうなどと考えてはいけません。 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』はとても発表できるレヴェルに達していません。あまりにも稚拙でいいかげんででたらめな ── どこに出しても恥ずかしい ── 代物です。本来なら、つまり、発表なんかとんでもないというレヴェルですから、批判の対象にもなりえないわけです。ところが、発表されてしまった。発表されてしまった以上、これは ── こんなものを発表してしまった出版社の行為を含めて ── 徹底的に批判されなければなりません。正しい評価を受けなくてはならないんです。金輪際これほどでたらめな翻訳が発表されないためにも、亀山訳は批判を受けねばなりません。以前にもいいましたが、私は亀山郁夫の個々の誤訳が正されればいいと考えているのではありません。彼の訳そのものがなくなればいいと考えています。「最先端」の亀山郁夫なんかに『カラマーゾフの兄弟』を訳すことがそもそも無理だからです。どうして『カラマーゾフの兄弟』をこれほどとんちんかんにしか読み取れないひとに翻訳なんかができるでしょう? 私は光文社と亀山郁夫とが亀山訳を絶版にし、すでに売れたものは回収もすることをも望みますが、それでも「言論・出版の自由」は尊重されねばなりません。それとともに批判も継続されねばなりません。 ── ふうん。それじゃ、これはどうです? あなたはさっき大西巨人を引用しましたよね。
ええ。 ── で、あなたのこれまたよく引用する保坂和志ですが ── あなたは『カンバセイション・ピース』から「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に我慢して踏ん張って考えつづけなければいけないんだな、これが」という語り手のことばをいつも引いてますよね ── 、でも、同じ語り手が妻にこういわれるじゃないですか。
ええ、それが? ──「AでもないBでもない」=「ああでもないこうでもない、ああだとしたらこうでもある、ああでないとしたらこうであるかもしれないけれど、こうであるとしてもああであるとはかぎらない」じゃないんですか?「わからないときにすぐにわかろうとしない」=「AでもないBでもない」じゃないんですか? ほら、どうです? ん、何を笑ってるんですか? いや、ああ、なるほどね、と思ったんですよ。
そこでのね、「スタートの考え方が間違ってる」ということへの恐れの方が実は「AでもないBでもない」を導くんですよ。「スタートの考え方が間違ってる」というふうに考えるひとにはね、考えることができません。このひとは「考える」ということを完全に誤解しています。「考える」ということが、自分の身を投げ出し、汚れまみれ・傷だらけにになることだなんて思っていないんですね。自分があくまできれいなまま・無傷なまま、ある種の中立地帯に立って、スマートに「考える」ことができると思っているんです。「考える」ということがひたすら傍目に「徒労」・「優柔不断」・「不健全」にしか見えないということがわかっていないんです。だから、こういうひとはいつも、自分でもよくわかっていないまま、他人の差し出す安易な・ありがちな結論に飛びつくことになるんですよ。まったくの思考停止です。いいですか、「考える」ってことは賭けなんですよ。これは無傷じゃすみません。「考える」っていうのは「たたかう」ということですよ。たしかに「スタートの考え方が間違ってる」ということへの懸念は「考える」者にもあるでしょう。でも、それは彼にはどうにもならないことなんですよ。それでも彼はそのまま行かざるをえないんです。そのまま行かざるをえない、とにかく始めた以上、とことん進んで行かざるをえない。もう彼にはどうしようもないんですよ。懸念はつきまとうにしても、「スタートの考え方が間違ってる」なんてことは、もう彼にはどうでもいいんです。それが「考える」ってことです。とはいえ、その彼にはまったく当てがないわけじゃない。彼は「Aだ」と思っています。それでもなかなか「不動のA」に行き着くことができない。きっとこのはずだ、こうでないわけがない、いや、それは違う、それも違う、いやいや、それも違う、どうしてそうなんだ? ── この営みが「考える」ということです。 というわけで、私はいいますが、『カンバセイション・ピース』での「ああでもないこうでもない、ああだとしたらこうでもある、ああでないとしたらこうであるかもしれないけれど、こうであるとしてもああであるとはかぎらない」が、一見あっちへふらふらこっちへふらふらというふうに思われるかもしれませんが、それこそが実は「一所懸命「不動のA」を追究」することであるはずです。それが「考える」ということです。 ただね、あなたのためにいいますが、私も大西巨人の「でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな」を読んだときには、そのあまりの厳しさにうろたえて、何とか逃げ道はないものか、と思いましたっけ。「AでもないBでもない」=「ああでもないこうでもない、ああだとしたらこうでもある、ああでないとしたらこうであるかもしれないけれど、こうであるとしてもああであるとはかぎらない」というのも、そのときには考えてみましたっけ。 でも、そうじゃありません。 それにね、もう半年以上も亀山郁夫批判をつづけていると、私には大西巨人のいうことが痛切にわかるようにもなってきているんですよ。亀山郁夫のこの迷惑な仕事がなかったら、私がこうまで大西巨人のことばを理解できるということもなかったんじゃないですかね。同時にね、これは私にとっての『カンバセイション・ピース』理解の強化でもあるはずです。逆にいえば、お前はこれまで「ああでもないこうでもない、ああだとしたらこうでもある、ああでないとしたらこうであるかもしれないけれど、こうであるとしてもああであるとはかぎらない」をどう読んできたんだ? 何か自分に都合のよい、卑劣な目的に転用しうるとでも思っていたのじゃないか? ということにもなりますが。 補足をすれば、私がもう何度も自分には読解力があると繰り返しているのも、「スタートの考え方が間違ってる」とのたたかいであるはずです。自分には読解力がないと私が思ってしまえば、それは「スタートの考え方が間違ってる」へと投降することになるんです。私はどうしてもそれをしたくありません。いや、私にはそれができません。 ── 亀山郁夫だってそう思っているんじゃないですか? また、それか。亀山郁夫はね、何にも考えちゃいないんです。くだらない思いつきをばらばらに並べていいかげんな辻褄を合わせているだけです。しかし、あなたがまだそんなことをいうなら、これを引用しておきましょう。
── 何だ! さっきまであなたのいっていたのと同じじゃないですか! 全然違うんですけどね。 しかし、何の知識もなしに、ただこの部分だけを読まされれば、亀山郁夫のいっていることも立派な主張に思えますよね。これが問題なんです。具体性を欠いた一般論めいたものというのは、いつでも何とでもいえるんですよ。どんなでたらめでも、もっともらしくいいつくろうことができちゃうんです。あらためて暗澹としましたよ。私もいまそんなふうにしゃべっているに違いありません。 あのね、だから、こういった一般論というのには注意した方がいいですよ。一般論というのは本当に曲者です。この形だと、誰でも何についてでももっともらしく主張できてしまうんです。そうして、世のなかのひとたちは、その実質がどうであれ、もっともらしい一般論を好むんですね。いや、世のなかなんてそんなものです。でたらめでいくらでも踊ることができるんですね。まったく、自分で引用しておきながら、何だか自分が馬鹿らしくなってきましたよ。やれやれ、ごまかし・いいつくろい・もっともらしく見せる・体面を保つ・嘘のつき通し ── そんなのは、この私からして日常的にやっていることじゃないですか。不誠実 ── まったく私の日常じゃないですか。ちっぽけで、卑劣で、小ずるい私。仕事もきちんとこなせない私。生活力のない私。そんな私にも偉そうな一般論なんかはいくらでも口に出せるんですね。 ── おやおや、急にどうしたんです? 何だか突然自分の「スタートの考え方が間違ってる」ような気がしてきたんですよ。つまり、「資格」ということですね。私というこんなつまらない一個の人間に亀山郁夫を批判する「資格」なんかありゃしないだろう、ってことです。 ── あれ、まあ。 「あれ、まあ」か。……「あれ、まあ」ねえ……。
……いやいや、その「資格」っていう考えかたを私はこれまでずっと拒んできたんでした。「資格」なんていいだしたら、誰にも発言権がないことになってしまいます。この「連絡船」でも私は、書き手・私と書店員・私との葛藤を扱いつづけてもきたんでした。以前にしゃべったことですが、
そうだ、思い出しましたが、昔、大学にいた頃の話 ── 二十数年前 ── ですが、「お前は卒業してどうするの?」とある先輩 ── 盛んに就職活動をしていたひとでした。内定もいったいいくつもらっていたのだったか ── に訊かれたんですね。「就職しますよ」って答えたんですが、「お前に何ができるの?」と返されたんですね。そのとき私はたしかに、自分には就職してこの世のなかで役立つようなことが何ひとつできないだろう、と暗い気持ちでそのことばを受け止めていたんです。ところが、次の瞬間、何か憤りにも似た感覚をともなって ── いまでも覚えていますが ── 、私はこう考えていたんでした。私にひと並みのことが何もできないというのはその通りだが、しかし、この世のなかの圧倒的多数のひとたちにできることができない私には、彼らの到底できないあるひとつのことだけはできる ──『カラマーゾフの兄弟』を読むということだ。そう、まさにそのとき私の考えていたのが『カラマーゾフの兄弟』だったんですね。 で、私は結局就職できたんですが、二年で辞めてしまいました。「アルジェリアのオランに行きたい」というのが辞職の理由で、オランというのはカミュの『ペスト』の舞台なんですね。だから、そこへ行きたいと思ったわけです。実際に行きましたけれどね。いま思えば、なんと身勝手な理由で辞めたのか、ということでもありますが、とにかくそうしたんです。その旅にも私は『カラマーゾフの兄弟』の文庫三巻(原卓也訳)を持って行きました。『トニオ・クレーガー/ヴェニスに死す』(野島正城訳)とともに。そうして、私はアルジェリア入国の前に、パリではジム・モリソン、プルースト、あるいはサルトルとボーヴォワールなどの墓を訪ね、後ではベートーヴェンやマーラーの墓をも訪ねましたっけ。その翌々年には『悪霊』(江川卓訳)を携えての旅で、トーマス・マンの墓をも。もちろん私はこれのことを考えてもいましたよ。
まあ、そんな思い出話はともかく、やっと私は立ち直りましたけれど、私という人間がどんなに卑劣でちっぽけであろうが、私はどうしても亀山郁夫批判をつづけないわけにはいきません。これはしかたがないんです。私は『カラマーゾフの兄弟』のためにこれをつづけないわけにはいきません。亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が公的な場に持ち込まれたので、その公的な場で私はそれを批判するんです。私の私的な事情は関係ありません。自分で呆れますけれどね。でも、本当にこの亀山批判までを譲ってしまったら、私にはもう何も残らないだろうという気がするんです。
そうして、またどうやらこの「連絡船」の私の記述には、ようやく賛同してくれるひとたちが現われはじめてもいるんですね。心強いコメントをいくつかいだたいています。私がためらったり、迷ったりしている場合ではないんです。
(もしかするとまったくの勘違いかもしれませんが、まさにこの ──「先刻その態度が私の予想を裏切ったとはいえ」の ──「冬木」がいるかもしれません。ある文章を読んで私はそう思いましたが) とはいえ、こういう私の文章には ── こうまで延々とつづけていればなおさら ── 、私がいくら隠そうとしても露わになってしまう私というのが必ずあるんだろうと思うんです。発言する私自身がどういう人間であるかということがどうしても露呈してしまう。もうこれはしかたがありません。私がどんなふうに見えてしまおうが、とにかく、いうべきことはいわなくてはならないと私は思っているんです。後は、これを読むひとが判断すればいいだけのことです。で、やっぱりこれは「賭け」ですよね。私は無傷というわけにはいきません。 同じことが亀山郁夫にもいえますね。たとえば、ですが、引用します。
それから、これも。
右のふたつの引用が同じ人間のことばだということに、私は恐ろしく興味をかきたてられるんですが、どうでしょう? まさに同一人物の発想です。もうこれが亀山郁夫の小ささ・せこさ・貧しさ・薄っぺらさですよ。両方ともまるっきり見当違いの『カラマーゾフの兄弟』読解ですが、それはともかく、どうやら亀山郁夫は彼のいう「罪」に何かしらの憧れのようなものがあり、できるなら法的な処罰をくらうことなしにその「罪」を犯してみたい・試してみたいのだ、というように私には思われるんですが、どうでしょうか? そうして、とりわけ注目したいのが、彼が「法」に触れることを何だか人一倍恐れているらしいということですね。これはドストエフスキーの悪用だと私は思うんですが。つまり、亀山郁夫はドストエフスキーの作品を、何か自分に都合のよい、卑劣な目的に転用しうるとでも思っているのじゃないか? ということです。これが私の考える亀山郁夫像なんですけれど。 「国立大学法人東京外国語大学研究活動に関わる不正行為防止規定」(平成一九年三月二十七日 規則第四一号)(http://www.tufs.ac.jp/research/doc/rules.pdf)によれば、
ということなんですが、たとえば、森井友人に指摘され、木下豊房が批判した、アリョーシャによるコーリャのことばのいい換え ── とても重要な ── を原典通りに訳さなかった亀山郁夫はこれに抵触しないんでしょうか? 亀山郁夫の翻訳およびいくつかの著作・発言は「国立大学法人東京外国語大学研究活動に関わる不正行為防止規定」における「不正行為」に該当しないでいられるんですか? ところが、同規定の第三条・第四条はこうなっています。
ええと、この大学の学長は誰でしたっけ? ── あはははははは。 というか、こんな「最先端」を学長に据えている大学というのはどうなんですか? そこの学生の方がちゃんと『カラマーゾフの兄弟』を読み取れるでしょうに。 ここで、もう一度亀山郁夫自身のことばを引用しておきましょうよ。爆笑できますから。
いいですか、「私は、ロシア・アヴァンギャルド研究の後に八年間ほどスターリン文化研究に励みましたが、そのスターリン文化研究の構造をそのままドストエフスキー研究に持ち込んでみたわけです」というその結果が、たとえば、「ペレズヴォンがジューチカとはべつの犬で、イリューシャを納得させるためにジューチカそっくりに右目をつぶされ、左耳にはさみを入れられた犬だ」なんですよ。そうするとですね、逆に亀山郁夫の「八年間ほど励」んだという「スターリン文化研究」というのがもうてんからでたらめだったということになるんじゃありませんか? 私はそこでどんな「最先端」が繰り広げられていたか知りませんけれど、もう全然信用ならないでしょう? 亀山郁夫の「スターリン文化研究」というのは、まさか何とか賞なんて受賞していませんよね? いまそれを確認するためにウィキペディアの「亀山郁夫」の項をのぞいてみたんですが、よくわかりませんでした。でも、誰か「最先端」のひとがこの項から、以前にはあった「誤訳」云々の記述 ──「二〇〇七年七月に完結した新訳『カラマーゾフの兄弟』はベストセラーになったが、その後、国際ドストエフスキー学会副会長・木下豊房らより、余りに誤訳が多い等の批判が出され、週刊新潮〇八年五月二十二日号の記事になっている(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm)。」── を削除しているみたいですよ。亀山郁夫本人じゃないですよね? 別人だとしてもそのひとが「最先端」だということは間違いありませんが。 ── ははあ、なるほど。 何だかいろんなことが一順したような気がしますね。とうとう私は「戦争」を引き合いに出し、XTC の歌詞までを引用しましたけれど、まったく、半年前に亀山批判を始めたとき、私は半年後のいまもこれを継続しているだなんて夢にも思っていませんでした。しかも、ここまで来て、私はこの批判がようやく半ばまで来たかどうかだと思っているんです。そうしてまた、私にはいまになってようやくこの「連絡船」がどういうものであるか、わかってきてもいるんですね。亀山郁夫批判は、この「連絡船」にとって、ついでのように現われた事件などではなかったんですね。亀山郁夫批判はこの「連絡船」そのものです。ここには、当初から「連絡船」で私がやろうとしていたことのすべての条件が揃っています。亀山郁夫批判はこの「連絡船」にとっての必然でした。「作品」と、「作品」に奉仕する作者と、「作品」に奉仕する読者と、その三者を橋渡しすること ── それがこの「連絡船」の仕事です。それを妨げ、「作品」と、作者と、読者とを冒涜しているのが亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』なんですね。だから、私は亀山郁夫と、彼の仕事と、彼の仕事に感心したり、推奨したりするひとたちを批判しつづけざるをえないんです。 |