「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇 5 朝日新聞の夕刊一面で連載されている「人脈記」における「感染症ウォーズ」の三、「「知識ワクチン」を接種せよ」(中村通子)をたまたま読みました。
これで思い出すのはカミュの『ペスト』── この文庫をもアルジェリアへの旅に携えていたことを前回に書き忘れていました ── でのこの場面です。
私はこんなふうにも考えます。ロシア文学の研究者たちや多くの出版社、新聞社、テレヴィ局などが、もしどうしても亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の非を問題にしなければならなくなる日が来るとして、そのときも彼らはまずこんなふうないい回しを用いるのだろうな、と。「つまりわれわれは、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』があたかもでたらめであるかのごとくふるまうという責任を負わねばならぬわけです」。 先の「「知識ワクチン」を接種せよ」の後段には、こうも書かれています。
また、これも最近に読んだ記事です。PHP研究所による「文蔵」── 私は以前、この雑誌に短い原稿を書いたことがあります。しかもドストエフスキーの!『罪と罰』の! ことで ── の最新三月号。 「特集『人間失格』『蟹工船』から『カラマーゾフの兄弟』まで リバイバル・ブームを読む!」なんですが、そこに「仕掛け人が明かす「ヒットの理由」」というのがあります。
ここで採りあげられた『カラマーゾフの兄弟』は、もちろん亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫。インタヴューに答えるのも、もちろん ── 、
まず、この「リバイバル・ブームを読む!」という企画が、以前に私が引用したこれと同じ視点からのものですよね。
この視点で特におぞましいのは、たとえ全五巻の累計であろうが、「一〇〇万部」を超えるベストセラーを無邪気に「よい」としていることです。一〇〇万人に受け入れられたからには、「よい」ものだ、というわけです。「一〇〇万部」と口にしたくてたまらないんですよ、こんなことをいうひとは。そんなことじゃ駄目です。もっと警戒すべきなんですよ。恐れるべきなんです。いいですか、私はもうこれまでに何度いったかわかりませんが、「一〇〇万部」単位のベストセラーなんかが成立するような世のなかじゃ駄目なんです。もう一度かつての私の文章を引用します。
私が右の文章を河出書房新社の雑誌に書いたのは、同社刊行の『蹴りたい背中』(綿矢りさ)── いまだに私はこれを読んでいません ── が一〇〇万部を超えた後だったと思います。 繰り返します。もうこの「一〇〇万部」ということばの大好きなひとが駄目なんです。「一〇〇万部」が自分の読書を正当化してくれると思っているんです。
しかし、たしかに実際、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』全五巻が累計一〇〇万部を超えたわけで、そういう現象を単に採りあげただけだ、と先の「視点」の持ち主らはいうかもしれません。それでも、彼らはこの「一〇〇万部」について、なぜこれほどまでに馬鹿な現象が起きているのか、と思わないでいられるんです。しかも、その『カラマーゾフの兄弟』が実は『カラマーゾフの兄弟』を僭称したものにすぎないことをも知りません。「一〇〇万部」万歳! それだけしか彼らの意識にはありません。 それにしても、川端博の「それだけ関心をもたれたのは、軽薄なモノが多い風潮を苦々しく思っているテレビ番組制作者の方が多いという表れかもしれません」は、よくもまあ、こういうことがいえたな、という発言です。「テレビ番組製作者の方」は、結局ただの「軽薄な」視点からいつもと同じことをしただけですよ。なぜなら、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』こそ当の「軽薄なモノ」に他なりませんから。まったく、いまだに自分の担当した『カラマーゾフの兄弟』がでたらめであるという認識もなく、こういう発言をするからには、川端博はこの仕事をするまで『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがなく、亀山郁夫の訳稿で初めて読んだ・読まされた・読まざるをえなかったのに違いないんですね。もし彼が既訳の ── たとえば原卓也訳 ── をきちんと読んだことがあれば、必ず亀山郁夫のでたらめがわかったはずです。亀山郁夫が「訳者あとがき」で書いたように、自分と川端博との「原稿の受け渡しのたびに交わしあう『カラマーゾフの兄弟』論は、それだけでも優に新書二冊分ぐらいの中身の濃いものだったはずである」も、それを裏付けますね。川端博は、訳稿を渡されるたび、「最先端」を吹き込まれ、ありがたがりながら、丸め込まれてしまったんですよ。そうでなかったら、彼も「最先端」です。まあ、こんなひとのこともどうでもいい。 さて、「一〇〇万部」を無邪気に「よい」とする、その「視点」で取りあげられる『カラマーゾフの兄弟』というのが私の気に入りません。「あの『カラマーゾフの兄弟』が一〇〇万部!」ということですよね。「いわゆる世界文学の最高峰にして難解・深遠なあの『カラマーゾフの兄弟』が!」ですよね。「東大教授が学生に読ませたい作品第一位の! 『カラマーゾフの兄弟』」ですよね。いい加減にしろ! と思います。いいですか、そんなレッテルなんかどうだっていいんですよ。そんなレッテルがあるからこそ『カラマーゾフの兄弟』が読まれるということはわかります。しかし、そんなものはどうでもいいんです。 実際はこうです。あなたが『カラマーゾフの兄弟』を ── 亀山郁夫訳以外で ── 読むとき、その『カラマーゾフの兄弟』は「あの『カラマーゾフの兄弟』」、「いわゆる世界文学の最高峰にして難解・深遠なあの『カラマーゾフの兄弟』」なんかじゃありません。ただの『カラマーゾフの兄弟』なんです。ただの一作品、ただのひとつの小説にすぎません。それは、あなたが自分ひとりの力で読み解くただの小説なんです。他人(世間)がどんなレッテルを貼っていようが、どうでもいいんです。ここにあるのは、もうただの小説『カラマーゾフの兄弟』対あなたというその関係だけです。そうして、あなたが自力で『カラマーゾフの兄弟』をどう読むか、しかないんです。 しかし、「文蔵」にせよ、読売新聞にせよ、『カラマーゾフの兄弟』を「いわゆる世界文学の最高峰にして難解・深遠なあの『カラマーゾフの兄弟』」というレッテルを貼りつけることで悪用しています。レッテルでものを語ってはいけません。 同様に、レッテルで大方のひとを押さえつけようとするのが、次の文章ですね。
「権威」なんかどうだっていいんですよ。繰り返しますが、あなたの前にあるのはただのひとつの小説にすぎません。どんな「権威」が訳していようが、結局その作品を読み解くのはあなたなんです。あなたしかいません。あなたの読んだその作品があなたにとってどうだったか ── それだけが問題なんです。 しかし、あなたの読んだものが偽物の『カラマーゾフの兄弟』であったら、どうでしょう。亀山郁夫訳は、その偽物です。 いったい、亀山郁夫を「ドストエフスキー研究の権威」なんていいだしたのはどこの誰なんでしょうか? こんな「最先端」が「ドストエフスキー研究の権威」のわけもありません。 川端博はさらにこう語ります。
「他の本の十倍以上は苦労しました」って、そのあげくがこのでたらめ『カラマーゾフの兄弟』であるからには、まったく「他の本」 ── 『カラマーゾフの兄弟』の十分の一以下の苦労 ── をどんなにいい加減につくっているんですか? それで思い出すのが、亀山郁夫のこの発言ですね。もちろん、ここでの「木下さん」は私・木下和郎ではなく、「ドストエーフスキイの会」会長の木下豊房です。
「こういう大作は何年もかけて訳を直して作っていくものだと思います」というのは何ですか? たしかにガルシア=マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳)が同一の訳者によって改訳されましたし、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳)も同様です。そういう例はたくさんあるでしょう。しかし、それらはいったん提出した自分の訳に ── それは、むろん誤訳の修正もあるでしょうが ── 磨きをかけたんですよ。亀山郁夫がそれらと自分の仕事とを同レヴェルに考えていいわけがない。彼は自分の訳に磨きをかけたのではなくて、欠陥を一部修正した ── 表面的に ── にすぎません。だいたいが、たちまち四十箇所も訂正せざるをえないようなものを最初から出版してよかったんですか? そもそもがいいかげんな仕事だったということじゃないんですか? 何が「“たぶん”は不適切で“きっと”だとか、解釈の違いです」ですか? 実際を知らない一般読者に自分の訂正が些細なレヴェルのものでしかないと思わせようとする言い訳じゃないですか。 それに、何ですか、「半ば妥協で訂正したもので、元に戻すかもしれません」というのは? 『カラマーゾフの兄弟』を訳すのに、「半ば妥協で」なんて仕事をしていいとでも思っているんですか?
この「野崎」を「亀山」に換えてみてほしいですね。 さらに、「勢いと感性で書かれた『カラマーゾフ』は時代背景や宗教、他作品などを総合的に考察し、登場人物に深く入り込まなければ読み取れないニュアンスが多く、自分なりの解釈が必要で」って、いったい誰が「登場人物に深く入り込」んだんですか? これこそ私は怒りとともに強調したいですが、いい加減にしろ! ってことです。アリョーシャもイワンもイリューシャもゾシマもキリストも泣いていますってば! 「勢いと感性で書かれた」なんていわれたら、ドストエフスキーも泣きながら身もだえしていますって! さて、先に引用した「文藝」への私の原稿ですが、あれが前段(「POPと私」というほどの意味の文章)で、その後に、私の推す三つの作品を私のPOP(画像)とともに紹介する ── 全四ページ ── という形になっていまして、つづく二ページで、私は『フランスの遺言書』(アンドレイ・マキーヌ 星埜守之訳 水声社)と『フォー・レターズ・オブ・ラブ』(ニール・ウィリアムズ 石川園枝訳 アーティストハウス)について書きました。
以上につづいて、私はこの作品について書きました。松沢呉一『魔羅の肖像』(新潮OH!文庫)です。
『魔羅の肖像』には、著者松沢呉一がある雑誌の女性編集者へ送った手紙が引用されているんですね。
思い出しましたが、この「文藝」への原稿依頼があったときに、私は編集者に『魔羅の肖像』について書きたいが、それでもいいか、と訊いたんですね。いま考えると、わざわざそんなことを訊いた私自身が笑えますが(同様に、私自身の文章の当時のレヴェルにも笑えます)。 松沢呉一は世間の「レッテル」好きを徹底的に批判しているんです。彼は「ひれ伏すな」のひとです。彼が一貫して書きつづけているのは「個の自由」の問題です。私は繰り返しますが、「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」んです。「あっていい」どころか、「あるべき」、いや、「なければならない」んですよ。 私は『魔羅の肖像』を読んで感動し、著者松沢呉一がネット上で「黒子の部屋」を書きつづけているのを読んでいました。その後、彼は有料のメルマガ「マッツ・ザ・ワールド」 ── 購読希望の方はここ(http://www.pot.co.jp/matsukuro/)をチェックしてください ── を発行することになるんですが、私もその購読者のひとりです。毎年購読の更新手続きがあって、振込みしたことを彼にメールで通知するんですが、その際、私はもう半年以上つづけているこの亀山郁夫批判のことを書き、「松沢さんには興味がないかもしれませんが」と断わりつつ、「連絡船」とこの一連の文章をまとめたPDFファイルのアドレスを伝えました。 松沢さんが「マッツ・ザ・ワールド」の「まつわる便り」(読者からのメールを紹介し、松沢さんのコメントを添えたもの)において、私のメールについてどう書いたか? これは、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことのない、しかし、出版業界で仕事をしつつ、この業界の先行きについて非常に悲観的な見かたをしているひとの「一般論」になりますが、
「と思っていたのですが、ネットの登場によって、少しはこれを変えられるかもしれない」に私は希望を見出します。「こういうものはもうネットからしか出てこないでしょう」にも共感します。 まったく、インターネットというものがあってよかった、と私は痛感しています。ここでは誰もが自由に発言できるんです。亀山郁夫について「王様は裸だ」といいうるんです。 少し前にクリント・イーストウッドの『チェンジリング』という映画を観たんですね。一九二八年に実際にアメリカであった話です。ある母子家庭から息子がいなくなり、五か月後に戻って来るのですが、それが実は別人なんですね。偽の息子は本人だといいはります。母親は彼を別人だと訴えるんですが、ロサンジェルス警察は彼女を逆に精神病院に収監してしまいます。当時汚職にまみれていたロス警察の名誉挽回の事件だったために、警察は事実を捻じ曲げます。しかし、母親を支援するひとたちがいました。ある牧師は自分のラジオ番組(あるいは、自分が放送機材を揃えていた ── 自分の局 ── のかもしれません)を持っていました。彼はこの事件での警察のでたらめを糾弾しつづけます。やがて市民のデモなども起き、母親は解放されます。そうして市警と対決することになるんですね。 私はこれを観ながら、まるっきり『カラマーゾフの兄弟』じゃないか、と思ったのでした。ある日、偽物の『カラマーゾフ』が本物と自称しながら市場に出回り、それを偽物だと指摘したひとたちが非難される(あるいは相手にされない)という図ですね。しかし、一九二〇年代に先の牧師が持っていたラジオ番組以上の道具 ── インターネット ── がいまの私たちにはあります。 映画は、しかし、あまりにも悲惨な内容ですが、私は勇気づけられました。 さて、ここしばらく『カラマーゾフの兄弟』そのものから離れた記述ばかりがつづいていますが、次回もこの延長です。そこでは、もう一度「些細なことながら、このようなニュアンスの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く」の表題をはずれます。そうして、「これから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読むひとのために ── 亀山郁夫訳による新訳がいかにひどいか」の反復、あるいは、ここまでの批判のまとめのような文章を、私は提出することになると思います。形式としては、あるひとへの公開書簡という形をとるはずです。 |