連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



村上春樹さま

村上春樹さま

 はじめまして。木下和郎と申します。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『スプートニクの恋人』とのどちらにもに名まえの挙がる町の書店に勤めています。いや、お会いしたことがないとはいえ、「はじめまして」ではないかもしれません。というのも、私は『海辺のカフカ』を(刊行前に)バウンド・プルーフで読んで、新潮社に感想 ── これは必ずあなたにお読みいただけるということでした ── を書き送った書店員のひとりだからです。私はその文章で、ポール・マッカートニーの « Live and let die»を引きながら、あなたの創作の変化に触れました。

 When you were young
 And your heart was an open book
 You used to say “Live and let live”
 (You know you did
 You know you did
 You know you did)
 But if this ever-changing world in which we’re livin’
 makes you give in and cry

 Say “Live and let die”
(Paul McCartney « Live and let die»)

 ── この通りのことが、あなたに起こっているのではないか? と、そう書きました。

 また、カート・ヴォネガットをも引きながら、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの「あなたじゃない」── ここがこの作品で私が最も繰り返して読む箇所であり、この作品の核にもなっていると考えている箇所です ── が『海辺のカフカ』に結んでいるに違いないと書きました。こんなふうに ──

 たしかに存在する邪悪なもの ── それに自分は与しない。自分が無意識にも与しないでいられるように自分を見張る。こういうことにすると、自意識のひどい悪循環のなかに取り込まれてしまうものだと思いますが、ここで、たとえばドストエフスキーでいうと、アリョーシャという人間が出てきます。父親殺しの犯人は自分以外の誰でもないと考えて苦しむ兄イワンにむかって、そのことを指摘もし、しかも「あなたじゃない」と断言してやれるような存在です。「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」。
 もし自分を邪悪なものと区別できなくなってしまうようなら、「live and let die」ということはできなくなってしまいます。いったん邪悪なものの存在を認識した者はそれと自分とをはっきり区別できるような感性を持ち合わせなくてはならないでしょう。そうでないと、「die and let die」になってしまうからです。おそらく田村カフカくんは最後にはその感度の自覚を持ったのだろうと思います。もちろん、油断はできないとしても。

 むろん、「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からの引用です。

 さらに、私は『海辺のカフカ』での「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ」に触れて、こうも書きました。

 訓練によってはじめて理解できる類の音楽や文学というものがあると私も思います。それに触れることが、こちらのなにかを鍛える(傷つける、ということにもなると思いますが)結果になるような、そういう音楽や文学。書店員としては、そういう文学がどんどん店頭から姿を消しつつある現状を嘆かわしく思っています。若い読者がそういう文学に出会う機会はいまやどんどん失われていっていると思っています。まだ店頭で余命を保っているいくつかの作品、たとえばドストエフスキーの、ヴォネガットの、フィッツジェラルドやサリンジャー、カフカやトーマス・マン、などなどの ── そういう作品群へと、現に自ら大きい読者の支持を得ていて、彼らを橋渡ししてやることのできる唯一の日本人作家が村上さんだろうと思っています。ですから、村上さんに引っかけてそういう作家たちの本を売ろうとするわけです。この意味では、ご本人の知らないところで、村上さんの責任は大きいんです。『海辺のカフカ』は『カラマーゾフ』やヴォネガットの文庫と一緒に並べるつもりでいます。

 私は、新潮社の「アーヴィング・コレクション」刊行時には、そこにヴォネガットの作品とあなたの作品とを一緒に並べて、三者がどういうつながりを持っているかをPOPに書きましたし、あなたの『スメルジャコフVS織田信長家臣団』が出たときには「スメルジャコフって何? と思ったひとはこちらをどうぞ」というPOPで『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)を平積みして併売しもしました。『海辺のカフカ』の刊行(文庫化も含めて)に際しては、「『海辺のカフカ』を読む前に、読んだら」というPOPで『カラマーゾフの兄弟』を推しました。また、新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』三巻へは、私の手書きの帯が一時期採用されもしましたが、そのなかで、私は『海辺のカフカ』について触れ、あなたの作品の読者が何とか『カラマーゾフの兄弟』を読んでくれるように導きもしました。私は『海辺のカフカ』を「『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとの書いた小説」として紹介しました。

 村上春樹さま、私はあなたが『カラマーゾフの兄弟』に特別の思いのあることを承知しています。その点に関しては、あなたも私も同じ気持ちであると考えています。

 ところが、いま私は非常に困惑しています。

 こんなふうに、私の困惑が始まったとお考えください。

「村上春樹が『カラマーゾフの兄弟』の新訳を褒めてる。読んだ?」
「読んでない。でも、亀山訳を? まさか? ありえないよ。村上春樹がそんなことをいうはずがない」
「読みやすい、といっています」

 というわけで、もうあなたには私のいいたいことがおわかりいただけたと思いますが、私が困惑したあなたの発言を引用します。

 翻訳で一番難しいのは英語のリズムをリアレンジして日本語のリズムに変えないといけないところ。リズムがないと人は読まないんです。英語のリズムのままでは日本語のリズムにならないからそれなりに取り替えなければならない。言葉や句読点の配列から文を繋げたり一つの文章を二つに分けたりというのは、すべてリズムを出すためにやっているんです。一番ダメなのは読んでてたびたび前に戻って確認しなきゃならない訳ですね。文章の命はリズムだから話の筋をトントンと進めて行かないと。ちなみに今は『カラマーゾフの兄弟』の新訳を読んでいるけれど、これ本当に読みやすいですね。
(「英知は復刊にあり」 週刊文春 二〇〇九年一月一・八日合併号)

 やれやれ ── です。

 しばらく前に、豊崎由美氏が『勝てる読書』という著作のなかで ──

 で、なかでもとりわけおすすめしたいのが、ドストエフスキーの亀山郁夫による『カラマーゾフの兄弟』。
 ……(中略)……
 ただ、惜しいことにこれまでの原卓也訳は堅くて、重厚すぎた。中高生読者を威嚇するかのような強面の訳業だったのです。ところが、今回の亀山訳を読んで驚嘆。易しいんですよ、面白いんですよ。カラマーゾフ家のダメ男どもの言動がおかしくて笑えるんですよ。ドストエフスキーで笑える日がこようとは……。感無量とはこのことです。難しい言葉をできるだけ排した訳文が、フョードルが殺される事件を軸にしたミステリーや、リーガル・サスペンス(法曹界を舞台にしたサスペンス)としての娯楽的な読みごたえも備えたこの作品本来の魅力を取り戻す。これぞ、新訳、新しく訳し直す道理にかなった意義深い仕事というべきです。
(豊崎由美『勝てる読書』 河出書房新社)

 ── と書いているのに対して、私は河出書房新社のサイトにあるこの本の感想投稿欄に、こう書き込みました。

 はじめまして。木下和郎と申します。
 「新訳座」に異議があります。
 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』はでたらめだらけです。
 こんなものを誰かに薦めることなどできません。
 豊崎さんはそれがわかっていますか?
 私はもうこの半年間、亀山批判を書きつづけています。

 http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf
 http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/
 
かなりの分量に膨れあがっていますが、お読みいただければ幸いです。

 私は豊崎さんが私の文章を読み、しかも共感してくれたのではないか、いや、共感してくれただろうと勝手に想像しているのですが、ここではあなたにも同じことを望みます。

 しかし、あなたに関しては、実のところ、私の文章を読むまでもないはずだと思っているんです。豊崎さんの場合は、彼女がいったいどんなふうにこれまで『カラマーゾフの兄弟』を読んできたかということが、私には全然わかりませんでしたから(またその投稿欄の字数制限もわかりませんでしたから)、右のように書きましたが。

 つまり、私は村上さんがこの「手紙」を読むまでもなく、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がでたらめであることをすでに認識されているはずだと思っているんです。週刊文春での発言の時点で、あなたは亀山訳をほんのわずかしか読んでいなかった。しかも、いささか油断しながら ── これは微妙な表現ですが ── の読書だった。ところが、その後、これはどうもおかしいな、何だか変じゃないか、と首をかしげだした……。

 あなたの小説作品のほとんどを読んできた私には、あなたがこれまでに『カラマーゾフの兄弟』をどう読んできたかがおおよそのところで ── どのレヴェル以上で・どのようにか ── わかっていると思います。また、この私はそれを通じても『カラマーゾフの兄弟』への理解を深めてきたはずだと思っています。
 そのあなたに亀山訳のでたらめを見抜けないはずがない、と信じているんです。

 とはいえ、こうしてあなたに「手紙」を送る以上、私は自分のこれまで書きつづけ、かなりの量にまで膨れ上がってしまった亀山批判の要約とでもいうべきものを書いておくことにします。

 私は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の全体を読んでいません ── いまだに読みたくもありませんし、今後も読まないでしょう。また、私はロシア語をまったく解しません。私はただ日本語作品として『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳)を何度も読み返してきただけです。その私になぜ亀山批判ができるのかということは、これまでの批判文章で詳しく書いています。

 ともあれ、私は昨年七月にたまたま自分の勤める書店で、亀山訳での「あなたじゃない」の箇所を立ち読みしたのでした。そこで私の感じたのはこうでした。いったい、なぜ亀山氏はこの場面をこうものんびりと悠長な調子で訳しているのだろう? まるきっり切迫感がないじゃないか。
 首をかしげた私は、第五巻収録の亀山氏による「解題」を読んで、仰天しました。亀山氏によれば、この場面でイワンはアリョーシャの「あなたじゃない」を即座に理解できなかったのです。イワンはアリョーシャが何をいいだしたのか、まったくわからなかったのです。つまり、それは亀山氏自身にわからなかったということです。亀山氏に読み取れない以上、イワンも「あなたじゃない」の意味がわからなかったことになるのです。そこで、亀山氏=イワンは、「あなたじゃない」を「あなただ」と受け取ります。そうして、このアリョーシャのことばによって、イワンは突如身体に変調を覚えることになるんです。亀山氏はこの箇所について、NHKのラジオ講座テキストでこう書きもしています。

 アリョーシャの「あなたじゃない」という言葉は、イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます。
(亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)

 開いた口がふさがりません。
 もちろん、実際は、「犯人は自分以外の誰でもない」と思いつめて、悪魔の幻覚を見るほど身体に変調をきたすほどになっていたイワンに向けてアリョーシャは「殺したのはあなたじゃない」というわけです。アリョーシャはイワンを救おうとしていました。それで、「あなたじゃない」ということばを自らの「一生をかけて」(原卓也訳)いったのです。そのことが亀山氏にはまったく理解できていません。アリョーシャ自らの「一生をかけて」ということばを亀山氏が訳すと「あなたが死ぬまで」── つまり、イワンが死ぬまで ── ということになるんです。彼はこの場面で感動したことが全然ないんです。
 このことは、亀山氏がアリョーシャという人物、イワンという人物をまったく誤読したまま作品を読んできたことを明白に示します。

 さらに「解題」を読んでいき、私は次々に仰天する記述に出くわすことになりました。
 大審問官に対するキリストのキスは大審問官の事業についての「承認と、ことによると「祝福」のキス」だそうです。つまり、亀山氏には、叙事詩「大審問官」を、キリストが大審問官と現世の権力争いをしているという図でしか読み取れていなかったわけです。しかも、ここでのキリストはドストエフスキーの原典では「キリスト」と書かれていないため、これまでの翻訳は間違いであり、大審問官に相対しているのは、実はキリストの僭称者であるかもしれないそうです。ひどすぎます。

 私は、イワンがなぜ叙事詩「大審問官」を創作したのか、「大審問官」は何のためにあるのかを明らかにすることが『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置や意味を明らかにするということだ、と批判文章で詳述しています。
 それについてもう少し書きますが、「大審問官」とは、イワンの「謹んで切符をお返しする」という主張のキリスト向けヴァージョンだということです。その前提になるのが、これです。

「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなきゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」
「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 アリョーシャのいうゾシマ長老のことばは、こうでした。

「その人はこう言うんです。自分は人類を愛してはいるけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代りいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体の対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな」
(同)

『カラマーゾフの兄弟』において、ドストエフスキーは「人類」に対する愛と「人間の顔」を持った「個々のひとびと」に対する愛とを明確に区別しています。この区別が、「大審問官」を読むうえで欠かせないものです。この区別を亀山氏はまったく理解していません。「エピローグ」におけるコーリャの台詞の訳にもそれが表われています。まず原卓也訳で示しますが、

「もちろんですよ……全人類のために死ねればと思いますけど、恥辱なんてことはどうだっていいんです。僕らの名前なんか、滅びるにきまってるんですから! 僕はお兄さんを尊敬しますよ!」
(同)

 この後で、アリョーシャがこう話します。

「もしかすると、僕たちはわるい人間になるかもしれませんし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑うかもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに『僕はすべての人々のために苦しみたい』と言う人たちを、意地わるく嘲笑うようになるかもしれない」
(同)

 アリョーシャはコーリャの「全人類のために死ねれば」を自分のことばのなかで「僕はすべての人々のために苦しみたい」といい換えているんです。

 それを亀山氏がどう訳したか?

「もちろん……人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね」

「さっき、コーリャ君は、『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが、……」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 亀山郁夫訳 光文社文庫)

 亀山氏は、アリョーシャがせっかくいい換えたコーリャの台詞を元に戻して ── コーリャのことば通りにして ── しまいます。ということは、ドストエフスキーの書いた通りに訳さなかったんです。

 この箇所について、私はイワンとアリョーシャとの会話からの引用をまじえて、こう書きました。

 アリョーシャはここでもゾシマ長老の教えを想起していたんじゃないでしょうか?「愛の経験の少ない」コーリャ少年の「全人類のために死ねればと思います」という発言のはらむ危うさは、アリョーシャにとってなじみのものでした。だから、彼はコーリャの発言をいい換えたんじゃないですか? コーリャ、そんなふうに考えてはいけない、論理より先に愛することだよ、「全人類」なんかじゃなく、個々の「人間の顔」を愛することだよ、とアリョーシャはいいたかったのじゃないですか? 「全人類のために死ぬ」ことなんか実は簡単なんだよ、「すべての人々のために苦しむ」ことの方がはるかに難しいんだよ、コーリャ、生きて、「人間の顔」を持った「すべての人々のために苦しみ」なさい……

 そして、こう書きました。

 そんなわけで、これほどまでに重要な意味のこめられた、アリョーシャによるコーリャの台詞のいい換えをそのまま訳さなかった亀山郁夫のでたらめ・不誠実・無理解・無能がさらに鮮明に浮き上がってきました。

 亀山郁夫にはアリョーシャのいい換えの意味がまるっきりわかっていなかったということです。それは彼がアリョーシャを理解していないだけでなく、ゾシマ長老をも理解していないこと、さらには、この作品におけるキリストの意味をもまったく理解していないということを示します。
 そんなひとが「大審問官」におけるキリストを理解できていたわけもありません。

 どうでしょう? 作品をこの程度にしか読み取れていない翻訳者の仕事がどのようなものか、作家でもあり、翻訳者でもある村上さんには、もう十分におわかりいただけたでしょう。翻訳者の作品理解は必ず彼の翻訳に反映されます。つまり、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は、実は『カラマーゾフの兄弟』を僭称しているだけ ── でたらめだらけ ── の偽物だということです。

 もうひとつ、あまりにも愚劣な亀山氏の読み取りをご紹介しますが、ペレズヴォンというコーリャの連れてきた犬は、イリューシャのジューチカとはべつの犬だそうです。ジューチカによく似た犬の片目をつぶし、耳にはさみを入れ、厳しい訓練をほどこしたのがコーリャだそうです。

 こうした読み取りを亀山氏は日本でのドストエフスキー研究の「最先端」だと称しています。そうして、マスメディアにさかんに露出し、でたらめを振りまきつづけているんです。

 私が何を批判しているか、おわかりいただけたと思います。

 もちろん、あなたはこの亀山訳を読む以前に、この訳に対する専門家らの批判のあることを承知されていたと思います。しかし、あなたはその批判がご自分の新訳に向けてなされた批判と同レヴェルのものだとしか考えなかったのではないでしょうか? 全然違います。亀山訳はあまりにも稚拙な誤訳の集積なのです。しかも、これは表面的なものではなく、ここまで私が述べてきたように、深層的・構造的な理由によるものなのです。

 昨年の十月、ロシア文学会のワークショップにおいて、質疑応答の際に「亀山訳はでたらめだ」という発言を受けて、ゲストの柴田元幸氏 ── 私は、村上さんの翻訳とともに、柴田さんの仕事にも大きい影響を受けていると思います ── がこういったそうです。「他人の訳を批判する最良の方法は、自分でもっといい訳を出すことだ」。これは、一見もっともな意見です。つまり、翻訳者が同業者の仕事を批判するという点において通用する意見です。しかし、柴田さんのこの視点に欠けているのは、でたらめな訳を読まされる読者への配慮、でたらめな訳をされる作者と作品への配慮です。
 柴田さんは亀山訳の実際を知らないのです。知っていたら、右のような発言のできるわけがありません。柴田さんがオースターやミルハウザーの作品で、亀山訳に当たるようなものが出てきたときに同じ回答をするとは思えません。
 それに対して、沼野充義氏は亀山訳の実際を知っていながら、いろんなメディアを通じて亀山氏称揚をつづけています。つまり、嘘をつきつづけています。
 私はこういうことが許せません。

 村上春樹さま、あなたは、あなたの読者が今後、あなたの影響によって『カラマーゾフの兄弟』を読もうと考えたときに、亀山訳を「読みやすい」といって推奨できますか?

 以上のようなことを、私はこの半年以上、ずっと書きつづけてきました。この先もつづけます。おそらく現在のところ、全体の半ばほどにはなったろうかという感じです。お読みいただければ、幸いです。
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf

 もし、あなたにお答えいただけるなら、あなたの新作『1Q84』の担当編集者の方にお伝えください(というのも、直接お返事いただいても、私にはそれがあなたからのものであるかどうか、わからないからです)。この方は必ず私に連絡をつける方法をご存じです。

 あなたの今後のご活躍をお祈り申し上げます。
木下和郎

(二〇〇九年三月二十五日)


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