村上春樹さま 村上春樹さま はじめまして。木下和郎と申します。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『スプートニクの恋人』とのどちらにもに名まえの挙がる町の書店に勤めています。いや、お会いしたことがないとはいえ、「はじめまして」ではないかもしれません。というのも、私は『海辺のカフカ』を(刊行前に)バウンド・プルーフで読んで、新潮社に感想 ── これは必ずあなたにお読みいただけるということでした ── を書き送った書店員のひとりだからです。私はその文章で、ポール・マッカートニーの « Live and let die»を引きながら、あなたの創作の変化に触れました。
── この通りのことが、あなたに起こっているのではないか? と、そう書きました。 また、カート・ヴォネガットをも引きながら、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの「あなたじゃない」── ここがこの作品で私が最も繰り返して読む箇所であり、この作品の核にもなっていると考えている箇所です ── が『海辺のカフカ』に結んでいるに違いないと書きました。こんなふうに ──
むろん、「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からの引用です。 さらに、私は『海辺のカフカ』での「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ」に触れて、こうも書きました。
私は、新潮社の「アーヴィング・コレクション」刊行時には、そこにヴォネガットの作品とあなたの作品とを一緒に並べて、三者がどういうつながりを持っているかをPOPに書きましたし、あなたの『スメルジャコフVS織田信長家臣団』が出たときには「スメルジャコフって何? と思ったひとはこちらをどうぞ」というPOPで『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)を平積みして併売しもしました。『海辺のカフカ』の刊行(文庫化も含めて)に際しては、「『海辺のカフカ』を読む前に、読んだら」というPOPで『カラマーゾフの兄弟』を推しました。また、新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』三巻へは、私の手書きの帯が一時期採用されもしましたが、そのなかで、私は『海辺のカフカ』について触れ、あなたの作品の読者が何とか『カラマーゾフの兄弟』を読んでくれるように導きもしました。私は『海辺のカフカ』を「『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとの書いた小説」として紹介しました。 村上春樹さま、私はあなたが『カラマーゾフの兄弟』に特別の思いのあることを承知しています。その点に関しては、あなたも私も同じ気持ちであると考えています。 ところが、いま私は非常に困惑しています。 こんなふうに、私の困惑が始まったとお考えください。 「村上春樹が『カラマーゾフの兄弟』の新訳を褒めてる。読んだ?」 「読んでない。でも、亀山訳を? まさか? ありえないよ。村上春樹がそんなことをいうはずがない」 「読みやすい、といっています」 というわけで、もうあなたには私のいいたいことがおわかりいただけたと思いますが、私が困惑したあなたの発言を引用します。
やれやれ ── です。 しばらく前に、豊崎由美氏が『勝てる読書』という著作のなかで ──
── と書いているのに対して、私は河出書房新社のサイトにあるこの本の感想投稿欄に、こう書き込みました。
私は豊崎さんが私の文章を読み、しかも共感してくれたのではないか、いや、共感してくれただろうと勝手に想像しているのですが、ここではあなたにも同じことを望みます。 しかし、あなたに関しては、実のところ、私の文章を読むまでもないはずだと思っているんです。豊崎さんの場合は、彼女がいったいどんなふうにこれまで『カラマーゾフの兄弟』を読んできたかということが、私には全然わかりませんでしたから(またその投稿欄の字数制限もわかりませんでしたから)、右のように書きましたが。 つまり、私は村上さんがこの「手紙」を読むまでもなく、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がでたらめであることをすでに認識されているはずだと思っているんです。週刊文春での発言の時点で、あなたは亀山訳をほんのわずかしか読んでいなかった。しかも、いささか油断しながら ── これは微妙な表現ですが ── の読書だった。ところが、その後、これはどうもおかしいな、何だか変じゃないか、と首をかしげだした……。 あなたの小説作品のほとんどを読んできた私には、あなたがこれまでに『カラマーゾフの兄弟』をどう読んできたかがおおよそのところで ── どのレヴェル以上で・どのようにか ── わかっていると思います。また、この私はそれを通じても『カラマーゾフの兄弟』への理解を深めてきたはずだと思っています。 そのあなたに亀山訳のでたらめを見抜けないはずがない、と信じているんです。 とはいえ、こうしてあなたに「手紙」を送る以上、私は自分のこれまで書きつづけ、かなりの量にまで膨れ上がってしまった亀山批判の要約とでもいうべきものを書いておくことにします。 私は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の全体を読んでいません ── いまだに読みたくもありませんし、今後も読まないでしょう。また、私はロシア語をまったく解しません。私はただ日本語作品として『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳)を何度も読み返してきただけです。その私になぜ亀山批判ができるのかということは、これまでの批判文章で詳しく書いています。 ともあれ、私は昨年七月にたまたま自分の勤める書店で、亀山訳での「あなたじゃない」の箇所を立ち読みしたのでした。そこで私の感じたのはこうでした。いったい、なぜ亀山氏はこの場面をこうものんびりと悠長な調子で訳しているのだろう? まるきっり切迫感がないじゃないか。 首をかしげた私は、第五巻収録の亀山氏による「解題」を読んで、仰天しました。亀山氏によれば、この場面でイワンはアリョーシャの「あなたじゃない」を即座に理解できなかったのです。イワンはアリョーシャが何をいいだしたのか、まったくわからなかったのです。つまり、それは亀山氏自身にわからなかったということです。亀山氏に読み取れない以上、イワンも「あなたじゃない」の意味がわからなかったことになるのです。そこで、亀山氏=イワンは、「あなたじゃない」を「あなただ」と受け取ります。そうして、このアリョーシャのことばによって、イワンは突如身体に変調を覚えることになるんです。亀山氏はこの箇所について、NHKのラジオ講座テキストでこう書きもしています。
開いた口がふさがりません。 もちろん、実際は、「犯人は自分以外の誰でもない」と思いつめて、悪魔の幻覚を見るほど身体に変調をきたすほどになっていたイワンに向けてアリョーシャは「殺したのはあなたじゃない」というわけです。アリョーシャはイワンを救おうとしていました。それで、「あなたじゃない」ということばを自らの「一生をかけて」(原卓也訳)いったのです。そのことが亀山氏にはまったく理解できていません。アリョーシャ自らの「一生をかけて」ということばを亀山氏が訳すと「あなたが死ぬまで」── つまり、イワンが死ぬまで ── ということになるんです。彼はこの場面で感動したことが全然ないんです。 このことは、亀山氏がアリョーシャという人物、イワンという人物をまったく誤読したまま作品を読んできたことを明白に示します。 さらに「解題」を読んでいき、私は次々に仰天する記述に出くわすことになりました。 大審問官に対するキリストのキスは大審問官の事業についての「承認と、ことによると「祝福」のキス」だそうです。つまり、亀山氏には、叙事詩「大審問官」を、キリストが大審問官と現世の権力争いをしているという図でしか読み取れていなかったわけです。しかも、ここでのキリストはドストエフスキーの原典では「キリスト」と書かれていないため、これまでの翻訳は間違いであり、大審問官に相対しているのは、実はキリストの僭称者であるかもしれないそうです。ひどすぎます。 私は、イワンがなぜ叙事詩「大審問官」を創作したのか、「大審問官」は何のためにあるのかを明らかにすることが『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置や意味を明らかにするということだ、と批判文章で詳述しています。 それについてもう少し書きますが、「大審問官」とは、イワンの「謹んで切符をお返しする」という主張のキリスト向けヴァージョンだということです。その前提になるのが、これです。
アリョーシャのいうゾシマ長老のことばは、こうでした。
『カラマーゾフの兄弟』において、ドストエフスキーは「人類」に対する愛と「人間の顔」を持った「個々のひとびと」に対する愛とを明確に区別しています。この区別が、「大審問官」を読むうえで欠かせないものです。この区別を亀山氏はまったく理解していません。「エピローグ」におけるコーリャの台詞の訳にもそれが表われています。まず原卓也訳で示しますが、
この後で、アリョーシャがこう話します。
アリョーシャはコーリャの「全人類のために死ねれば」を自分のことばのなかで「僕はすべての人々のために苦しみたい」といい換えているんです。 それを亀山氏がどう訳したか?
亀山氏は、アリョーシャがせっかくいい換えたコーリャの台詞を元に戻して ── コーリャのことば通りにして ── しまいます。ということは、ドストエフスキーの書いた通りに訳さなかったんです。 この箇所について、私はイワンとアリョーシャとの会話からの引用をまじえて、こう書きました。
そして、こう書きました。
どうでしょう? 作品をこの程度にしか読み取れていない翻訳者の仕事がどのようなものか、作家でもあり、翻訳者でもある村上さんには、もう十分におわかりいただけたでしょう。翻訳者の作品理解は必ず彼の翻訳に反映されます。つまり、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は、実は『カラマーゾフの兄弟』を僭称しているだけ ── でたらめだらけ ── の偽物だということです。 もうひとつ、あまりにも愚劣な亀山氏の読み取りをご紹介しますが、ペレズヴォンというコーリャの連れてきた犬は、イリューシャのジューチカとはべつの犬だそうです。ジューチカによく似た犬の片目をつぶし、耳にはさみを入れ、厳しい訓練をほどこしたのがコーリャだそうです。 こうした読み取りを亀山氏は日本でのドストエフスキー研究の「最先端」だと称しています。そうして、マスメディアにさかんに露出し、でたらめを振りまきつづけているんです。 私が何を批判しているか、おわかりいただけたと思います。 もちろん、あなたはこの亀山訳を読む以前に、この訳に対する専門家らの批判のあることを承知されていたと思います。しかし、あなたはその批判がご自分の新訳に向けてなされた批判と同レヴェルのものだとしか考えなかったのではないでしょうか? 全然違います。亀山訳はあまりにも稚拙な誤訳の集積なのです。しかも、これは表面的なものではなく、ここまで私が述べてきたように、深層的・構造的な理由によるものなのです。 昨年の十月、ロシア文学会のワークショップにおいて、質疑応答の際に「亀山訳はでたらめだ」という発言を受けて、ゲストの柴田元幸氏 ── 私は、村上さんの翻訳とともに、柴田さんの仕事にも大きい影響を受けていると思います ── がこういったそうです。「他人の訳を批判する最良の方法は、自分でもっといい訳を出すことだ」。これは、一見もっともな意見です。つまり、翻訳者が同業者の仕事を批判するという点において通用する意見です。しかし、柴田さんのこの視点に欠けているのは、でたらめな訳を読まされる読者への配慮、でたらめな訳をされる作者と作品への配慮です。 柴田さんは亀山訳の実際を知らないのです。知っていたら、右のような発言のできるわけがありません。柴田さんがオースターやミルハウザーの作品で、亀山訳に当たるようなものが出てきたときに同じ回答をするとは思えません。 それに対して、沼野充義氏は亀山訳の実際を知っていながら、いろんなメディアを通じて亀山氏称揚をつづけています。つまり、嘘をつきつづけています。 私はこういうことが許せません。 村上春樹さま、あなたは、あなたの読者が今後、あなたの影響によって『カラマーゾフの兄弟』を読もうと考えたときに、亀山訳を「読みやすい」といって推奨できますか? 以上のようなことを、私はこの半年以上、ずっと書きつづけてきました。この先もつづけます。おそらく現在のところ、全体の半ばほどにはなったろうかという感じです。お読みいただければ、幸いです。 (http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf) もし、あなたにお答えいただけるなら、あなたの新作『1Q84』の担当編集者の方にお伝えください(というのも、直接お返事いただいても、私にはそれがあなたからのものであるかどうか、わからないからです)。この方は必ず私に連絡をつける方法をご存じです。 あなたの今後のご活躍をお祈り申し上げます。 木下和郎
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