連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一一

 さて、しばらく前のこと、休みの日 ── ということは平日です ── の午後、私はクリーニング屋に行こうとしていて、ある信号を渡ったんですね、手には汚れ物を入れたクリーニング屋の手提げ袋。渡ったところで、おそらく高校生かそれ以上の、若いやつら数人が何か妙な絡まりかたをしている脇を通り過ぎたんですが、ちょっと嫌な感じがしましたっけ。でも、ただじゃれているだけなのかな、とも思いました。それで、そのままいくらか歩いて、もうじきクリーニング屋だというところで、「あっ」と思ったんですね。しまった、いま行って、数日前に出してある分の引き取りをしようとしている、その引換券というか預り証というか、とにかくそれを持ってくるのを忘れていたんです。そう、自宅のテーブルの上に置いてきてしまった。それで、立ち止まり、ちょっと考えて、引き返したんですね。やれやれ、と思いながら。
 で、またさっきの信号の手前に戻ると、ですね。おそらく信号待ちしていた何人ものおばさんたちが ── 失礼、たぶんみんな私より若いでしょう。彼女たちが信号の方ではなく ── こちらを向いて口々に何か叫んでいる。「やめなさい」とか「警察を呼ぶわよ」とかいっているんです。何が起こっていたかというと、私のすぐ目の前で、喧嘩です。さっきの若いやつらです。三対一での喧嘩。といっても、一の方が威勢がいい。三の方も、実はそのうちの一人だけが殴られている。あとの二人はやり合っている二人にぴったりくっつくようにしているだけで、仲間に加勢するでもない。それで、私はしかたなく、殴っているやつの肩を後ろからつかんで、引き離しました。たぶん「何してるんだ、やめろ」とかいったんだと思います。で、何だか揉み合いみたいになった拍子に、私の持っていたクリーニング屋の袋の取っ手がちぎれ、袋がばさっと地面に落ちたんですね。そうすると、三人の方の、この喧嘩を見守っていた二人のどちらかが、「すみません」なんていう。「すみません」じゃなくて、これを止めさせろよ、と私は思いましたが、私の引き離したやつがまた相手を殴り始める。これが、なんだか面白いように相手の右頬にヒットするんですよ。嫌な音がするんです。で、また、私はそいつを取り押さえて、引き離す。今度はいくらかの距離を三人との間に設けたんですね。私は、後ろにそいつ、前に三人という位置に立って、三人に「もういいから行け」といってやりました。すると、三人は何だか素直に歩き出したじゃないですか。意外でしたが、とにかくそうなりました。
 で、残った一人なんですが、おばさんたちに何やら文句をいっているんですね。「何だよ、あいつら、行っちゃったじゃないかあ」みたいなことを。おばさんたちもそれに対して何のかんのと ── 「駄目じゃないの」とか、そんなこと ── 叫んでいる。で、これで一件落着と思った私がそのまま信号を渡ろうとすると、おばさんたちのひとりが、私に「何? 知り合いじゃないの!」というので、私は手を振り、「違いますよ!」という。そのまま信号を渡るところで、また「あ」と気づきました。で、またUターンしてクリーニング屋に向かいました。
「あのう、引換券を忘れたんですが、木下ですけれど、調べてもらえますか?」
 そうやって引き取りはできました。何だ、最初からそれを思いついていれば、喧嘩なんかに巻き込まれることもなかったわけです。

 これが、そのまま私の亀山郁夫批判に重なるでしょう。

 またべつの ── これもちょっと前の ── 話。
 私の勤める書店に客からクレームの電話です。ある出版社の出しているDVD付の雑誌のパッケージが途中から変わったことに怒り狂っている客から。そんなことを書店にいわれてもどうしようもないんですけれどね。もう電話で怒鳴りまくる、怒鳴りまくる。この翌々日にも同じ電話。
 彼によれば、「出版社と書店はグルになって客を馬鹿にしてるんだよ!」
 そのことだけを考えれば、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を平積みに ── いまはしていませんが ── にしている書店の従業員には耳の痛い発言です。
 でも、「それとこれとは違う」ということです。
 私がそれで、どうしたか? 私はこの自分の人生で、誰かに向かってこれほど怒鳴ることがあるか ── それも相手は客です ── 、というほど怒鳴り返しつづけましたよ。そうしたら、相手も何だか怯むんですね。いやはや、この私が誰かに対してこれほど実際に怒鳴るとは!「訴えてやる!」ということばで相手は電話切りました。

 これも、そのまま私の亀山郁夫批判に重なるでしょう。

(二〇〇九年三月三十日)


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