連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「連絡船」の一読者へのメール


 ***さま

 私はあなたが亀山問題を理解していないと思います。
 おそらく、あなたは単にこれが亀山郁夫個人の問題だと考えているのじゃないでしょうか。私が彼を直接説得し、彼が非を認めさえすればいい、と。そのためには、私と彼とが対話できるような関係に立たなければならない。それなのに、私は彼に直接呼びかけずに、不特定多数の前に彼の非をぶちまけて、彼の失墜を扇動している。それは正しくないやりかただ。そんなふうにすれば、亀山郁夫はなおのこと自分の非を認めることをせず、さらにも誤りつづける。
 ほぼこういうことをあなたは考えているのじゃないでしょうか。
 また、あなたは私と亀山郁夫とで、私が圧倒的優勢であるかのようにも誤解していると思います。たしかに、きちんと読むひとが読めば、私の優勢ということは明らかかもしれません。しかし、現実としてどうかといえば、亀山郁夫はとうとう『悪霊』の翻訳にまで手をつけているわけです。

 私がこの一連の記述を通して批判しているのは、
 一 亀山郁夫自身
 二 亀山郁夫と仕事をした編集者たち
 三 その編集者たちを抱える出版社・放送局
 四 書評、インタヴュー等で亀山郁夫を称揚するひとたち
 五 そうした書評、インタヴューを載せる出版社、放送局、新聞社等
 六 亀山郁夫の仕事の実質も知らずに安易に対談する作家、タレント等
 七 亀山郁夫を批判できずにいるロシア文学界の面々
 八 上記のことをまったく理解せぬまま、亀山郁夫をありがたがる一般読者たち
 九 その他
 です。

 私がこの批判を通じて守ろうとしているのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という作品です。
 木下豊房氏が最初に「検証」を公開したとき、その副題は「新訳はスタンダードたりうるか」でした。その意味は、今後日本の読者が『カラマーゾフの兄弟』という作品について語る場合に、それが亀山訳であってよいのか、ということです。
 よくありません。なぜなら、亀山訳は実は『カラマーゾフの兄弟』ではないからです。

 もし、このまま亀山訳が日本における『カラマーゾフの兄弟』のスタンダードになってしまえば、どういうことになるか?
 あなたが今後誰かに『カラマーゾフの兄弟』の話をしようとして、相手が亀山訳しか読んでいなかったとしたら、どういうことになりますか?
 アリョーシャによるコーリャのことばのいい換えをでたらめに訳したものの読者に、あなたはどう話さなくてはならないんですか?

 もし、こんなことは些細な問題で、亀山訳も認められていいということになったら、今後、翻訳作品のレヴェルはどういうことになるんですか? これほどまでにひどいものがまかり通ることになれば、翻訳作品のレヴェルは急降下するでしょう。亀山訳は絶対に否定されなくてはなりません。

 亀山郁夫が私の批判を理解することはありません。読んではいるでしょうが。
 理解することができるくらいなら、最初からあんな仕事はしなかったでしょうし、いまも同じ調子で仕事のできるはずがありません。彼は「裸の王様」にすぎないんですが、しかし、周囲がでたらめなので、「王様」でありつづけているんです。

 それに対抗するために、どうしたらよいか。批判しかありません。批判は絶対に必要なものです。それは公になされるべきものです。批判のない社会というのは、最悪の社会です。
 ある作品をよいと推奨するときも、批判精神は絶対に必要です。誰かがある作品を褒めるなら、そのひとは、絶対に、「こんなものはクズだ」という他の作品を知っていなければなりません。それなしには、どんな作品を褒めることもできません。
 もし、この問題が公に問われることがなければ、そんな社会は ── 以前にも書きましたが ── いずれ、また戦争へとなだれこんでいくでしょう。この問題はそれほど重要なんです。妥協など一切許されません。

 私はあなたに(XTCの)ピーター・パンプキンヘッドについて書きました。また、「The tank man」の紹介もしました。(『神聖喜劇』の)東堂太郎を引き合いに出しもしました。「吊るされる」のは私かもしれません。それでも、私はこれをやりつづけなくてはなりません。なぜなら、(少数を除いて)他に誰もこれをしていないから。とにかく、いうべきことは絶対にいわなくてはなりません。

 亀山郁夫個人が今後どうなろうが、どうでもいいんです。そんなことより、『カラマーゾフの兄弟』ができるだけ正確な形で、日本の読者に伝わることの方が大事です。もし、ここで譲ってしまえば、恐ろしいことが起きます。日本の翻訳文化は崩壊します。翻訳文化だけではありません。出版文化も崩壊します。ということは、やがて文学も崩壊します。文学が崩壊したら、どうなるか。ひとの血が流れます。私は冗談をいっているのではありません。

 この問題に関してはいずれ「連絡船」でもあらためて書こうと思っています。

 木下和郎

(二〇〇九年十月二日)


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