連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六



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 六月にかなり長い文章(その一三)を公開してから ── ときおりの短い文章は書きましたが ── 、だいぶ空白の時間をつくってしまいました。なぜこんなことになったかを含めて、いろいろなことを書いてみようと思います。
 この後につづくいくつかの文章のある程度までは、すでに書きあげていたものですが、私はそれらをまとめてどう切り出してよいのか、わからなかったんです。それぞれがばらばらにとりとめのないものとしてしか自分に感じられなかった。
 私はこれまで通りに『カラマーゾフの兄弟』についての自分の読み取りを書き、並行して、この一連の文章を書きつづけて一年が経過したということでの感想のようなものをも書いていました。後者についていえば、一年が経過という文章にあれこれ思い悩んでいて、さらに一年の三分の一が過ぎてしまったことになります。そうして、前者については、どうも「これまで通りに」というのとは、やはり違って、私は困惑し、自信を失い、途方に暮れていた感じだったんですね。このことはまた後でしゃべります。
 その間にも、ネット上では、無知のために最先端=亀山郁夫をありがたがる一般読者の文章が増えつづけていました。佐藤優があいかわらず ── 『功利主義者の読書術』(新潮社)や『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』(立花隆との共著 文春新書)において ── でたらめな嘘を振りまいて、最先端=亀山郁夫を称揚しているのは想定内のことでしたが、村上春樹はとうとう最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を肯定してしまう発言をし、高村薫は最先端=亀山郁夫と公開対談をし、豊崎由美はあいかわらず『カラマーゾフの兄弟』を紹介するのに最先端=亀山郁夫訳を採用しつづけ、書店員の画期的な地域共同企画として注目を浴びている福岡の「ブックオカ」は二年連続で最先端=亀山郁夫講演を催しました。むろん、彼ら ── 佐藤優を除いて ── にはぞれぞれ「悪気はなかった」んでしょう。そうでしょうとも。
 その一方で、この八月に、木下豊房のサイトでは、森井友人による最先端=亀山郁夫の『『罪と罰』ノート』(平凡社新書)批判(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost133.htm)が公開されました。森井友人の指摘とそのやりかたには本当に敬服します。当の『罪と罰』を訳出中だった最先端=亀山郁夫が作品をどれだけ読み取れていないかということが見事に指摘され、彼の仕事のでたらめぶりが明白になりました。私は森井友人の文章を読んで、以前に私の指摘した、フョードル殺害後のイワンの二か月間の時系列を最先端=亀山郁夫が理解していないのではないか、という疑いが正しかったことを確信しました。つまり、最先端=亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』でも『罪と罰』でも、ろくに作品内の事実を ── 時系列すら ── 把握していないまま翻訳をしていたということですね。だから、何度もいっているように、彼は作品全体を支える文章ではなく、単に目の前にある一文一文だけを ── 作品の文脈とは関係なく ── 個別に翻訳していたわけです。しかも、それぞれに稚拙に、さらにはまったくの誤訳を連ねていた。この最先端には、小さな文脈すら読み取ることができていないんです。作品の全体が読み取れないのも当然です。
 また、新たにブログ「横板に雨垂れ」(http://yokoita.blog58.fc2.com/)でも佐藤優・亀山郁夫批判が書かれました。さらに、萩原俊治のブログ「こころなきみにも」(http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/)でも亀山批判が書き進められています。
 それにしても、森井友人の文章を読んですら、平気で最先端=亀山郁夫を称揚するひとがいるのは、どういうことなのか? しかも、書き手は昨日今日ドストエフスキーを読みはじめたというひとじゃありません。

 新訳『罪と罰』は、森井氏が指摘したように訳出においていくつかの問題箇所はあるのでしょうが全体的には、訳文は、すらすら読みやすい訳になっている印象があります。
(自分は新訳『罪と罰』はまだ全部は読み通していませんが、老婆殺害の場面をはじめ、亀山氏の日本語訳の持ち味やセンス(良き日本語感覚)が、このたびも発揮されていて、訳文自体に関しては、全般的に、新たな名訳だと自分は感じています)
(「ドストエフ好きーのページ」内「事項・テーマ別ボード」)
(傍点は私・木下による)

 私は気が遠くなります。「森井氏が指摘したように、訳出においていくつかの問題点があるのでしょうが」って、それがわかっていながら、提出された翻訳を「全体的には」肯定する、なんてことは不可能です。それに、いいですか、「森井氏が指摘した」のは「いくつかの問題点」なんてものではなくて、「いくつもの重大な問題点」ですよ。しかも、この書き手は、森井友人の指摘があらさがしにならないことを祈るなんてことまで書いていたんです(現在その文は削除されています。また、私はもうひとつの削除のことはいいません)。つまり、この彼もまた、作品を構造的に読み取ることができないまま多くの読書を重ねてきた、哀れで低級な読者のひとりなんですね。彼の読書では、彼の人生は左右されません。もし、彼がそんなことはない、というなら、余計に悲惨です。なぜこんなひとが「ドストエフ好きー」なんかでありうるのか? 私に最も理解できないのは、彼に最先端=亀山郁夫の読み取りと仕事のしかたとその結果としての翻訳とを切り離して考えることができるということです。信じられない。そうしてまた、彼のいう最先端=亀山郁夫の「良き日本語感覚」には大笑いです。実情は、「このたびも」最先端=亀山郁夫は「愚劣な日本語感覚」を発揮して、「新たなまがいもの」を商売道具にしたんですよ。Seigoさん、いまのような読書をしていては、この先あなたは一歩も進めませんよ。
 私が危惧しているのは、彼以外にも多くのひとが偽物の『カラマーゾフの兄弟』をつかまされて、しかも感動し、最先端=亀山郁夫に対する批判のあることも承知しつつ、そんなものは「コアなドストエフスキー・ファン」が騒ぎ立てているだけだ、と無知ゆえに納得してしまうことです。

(二〇〇九年十月二十六日)


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