「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(15)の1 雑誌「文学界」(文藝春秋)二月号での「新春特別対談」は、題して「カタストロフィ後の文学 ── 世界と対峙する長篇小説」。対談したのは高村薫と最先端=亀山郁夫。このふたりが対談したのは二度め(最初が毎日新聞社主催で二〇〇九年七月。この二度めが同年十一月)。 私は高村薫の作品を ──『レディ・ジョーカー』の最初の数十ページを除いて ── ひとつも読んだことがありません。彼女の作家としての実質を私は知りません。しかし、一書店員として、彼女が世のなかの読者にとってどんな位置にいるか ── ある程度「硬派」の読者に受け入れられ、彼女の社会的発言も重んじられている・社会的信用を得ている ── ということは何となく知っているとも思います。そうして、私は、その位置にいる彼女が、でたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低の最先端=亀山郁夫などと対談 ── 二度までも! ── したことを嘆きます。これは高村薫の恥になるでしょう。 反対に、得をしたのは最先端=亀山郁夫です。この対談の全体を読んで私の感じたのは、世のなかで信頼に足る作家として評価されている高村薫と、その高村薫の威を借りて、コバンザメのように彼女に貼りついて、自分のでたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低ぶりをごまかし、正当化しようとしている凡庸以下どころか最低の大学教授(!)との噛み合わないやりとり ── ですね。しかし、おそらくふつうの読者にはそれがわかりません。というわけで、まあ、高村薫を高く評価する読者、あるいは、彼女の世評の高さを知るひとの多くは最先端=亀山郁夫に好感を持ってしまったでしょう。繰り返しますが、この対談は高村薫の恥であり、罪でもあります。
学生時代に「しばらく劣等感に苦し」んだ最先端=亀山郁夫は、「しばらく」だけじゃなくて、ずっとその「劣等感」を大事にしなくてはならなかったんですよ。そして、もちろん、このいまもそれに苦しんでいなくてはなりません。最先端=亀山郁夫はいまも「完全な劣等生」のままであり、「文学者として全然才能が欠けて」います。 「いわゆる連合赤軍事件と比較される革命結社内部の内ゲバ抗争といったテーマ」などを通じて作品を読むことができなかったこと ── これは最先端=亀山郁夫が「批評的な文章」を書けなかったことと何の関係もありません。おそらく、当時の彼の周囲にそのテーマで論文を書いた優秀な(と最先端=亀山郁夫には思えた)学生がいて、担当教授がそちらを評価し、最先端=亀山郁夫を評価しなかったということなんでしょう。最先端=亀山郁夫はそういう観点で論文を書けなかった自分ということを口にしているわけです。しかし、最先端=亀山郁夫はもうそこで大きな勘違いをしています。彼が評価されなかったのは、彼の読解能力があまりにも低レヴェルだったことに尽きるはずだからです。それを棚に上げて、自分には「スタヴローギンと同期する経験だけが残って」なんて理屈でごまかし、自分を正視しようとしていないんですね。そうとしか思えません。 また、スタヴローギンについて「人の死を冷然と認め、なおかつ、他者に対する死の願望を自分の手を下すことなく実現していく彼の奇怪さ」といいますが、スタヴローギンはそういう人物ですか? 私は違うと思いますよ。しかし、私がその理由を説明するのは、いずれべつの機会、べつの場所で、です。 ともあれ、私がここで問題にするのは、最先端=亀山郁夫の読書の、ある傾向 ── つまり「亀山郁夫的読書」 ── についてです。「スタヴローギンと同期する経験だけが残って」── ここに問題があります。スタヴローギンがスタヴローギンたりうるのは、『悪霊』という作品の全体があってこそなんです。『悪霊』という作品があり、そこにステパン氏やシャートフやキリーロフやピョートルらがいる ── その全体が動的に表現されてこそ、スタヴローギンはスタヴローギンたりうるんです。作品全体を考えずにスタヴローギンだけを ── いわば「悪のヒーロー」として ── 採り上げる読書は小さい・せこい・貧しい・薄っぺらな読書ですよ。だいぶ前にもいいましたが、亀山郁夫の読書はドストエフスキーが非常に動的に描いた作品を、そのまま動的にとらえることができていないんです。なんだか平べったい止まったものとしてしか読めていないんです。それは真のスタヴローギンを損なう読書だ、と私はいいます。「人の死を冷然と認め、なおかつ、他者に対する死の願望を自分の手を下すことなく実現していく彼の奇怪さ」ですって? 最先端=亀山郁夫にはスタヴローギンの苦悩がまったくわかっていません。 右の発言と重なることを、最先端=亀山郁夫はべつの場所で次のように語っています。
で、その最先端=亀山郁夫はその後、『カラマーゾフの兄弟』を翻訳したわけですが、そこに至っても、アリョーシャの「あなたじゃない」が「イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます」だの、ペレズヴォンはジューチカとはべつの犬だだの、「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」がフェラポント神父の傲慢さへの非難だのとしか読めていないんですよ。何が「今では、自信をもって、こう言うことができます」ですか。 右の最先端=亀山郁夫の発言の何が誤りであるか、先と重なりますが、いっておきます。 まず、「本を読み、ただただ主人公に同化することだけが、自分にとっての文学」というのがそもそもの誤り。私はもう何度もいっていますが、読者は「作品に自分を合わせる」ことが大事です。「作品に」ですよ。「主人公に」じゃありません。最先端=亀山郁夫流の「主人公に同化すること」は、実は「作品を自分に合わせる」ことに結びます。彼がスタヴローギンに惹かれたのなら、「どのように」スタヴローギンが描かれているからなのか、をじっくりと考えなければならなかったんです。また、おそらく最先端=亀山郁夫の「主人公に同化する」というのは、たとえばスタヴローギンの誤った読み取りを根拠として、自分の誤った行為 ── 何か卑劣な行為 ── を正当化するということでもあるのじゃないですか? それは、スタヴローギンの誤用・濫用・悪用・乱用であるはずです。 次に、「文学とは、テクストを読むことだけでなく、それをしっかりと受け止め、言語化する営みである」ですが、それはすぐ後でこういい換えられていますね。「文学においては、読むことによる経験はどうでもよくて、まず言語化することが肝要である、うまく言語化できる人が優れた文学者、とされる」。このいい換えられた方が本音でしょう。ひどいものです。「読むことによる経験」が「どうでもいい」わけはないんです。「読むことによる経験」はとても大事です。「読むことによる経験」が「どうでもいい」ということになるのは、その読書が「亀山郁夫的読書」である場合だけです。このことを、いまだに最先端=亀山郁夫は理解していません。彼の「ただただ主人公に同化することだけが、自分にとっての文学だった」という、その「同化」ですが、一般的な読書でいえば、それは間違いではないでしょう。そういう読書を私は認めます。しかし、その「同化」がどういう「同化」であるかが問題なんです。つまり、そのときでも、読者のその「同化」は彼が作品に奉仕する=作品に自分を合わせる形での「同化」でなければなりません。絶対に作品を自分に合わせるような読書であってはならないんです。だから、私は最先端=亀山郁夫の「同化」だけが間違った「同化」なのだといいましょう。最先端=亀山郁夫的「同化」は誤りです。つまり、それが「最先端=亀山郁夫的読書」であるわけです。 また、「まず言語化することが肝要である、うまく言語化できる人が優れた文学者、とされる」の「とされる」がいかにも最先端らしい表現です。結局、学生時代からいまに至るまで、最先端=亀山郁夫は他人からの評価 にしか頭が働かないんですね。彼は長年、どうしたら他人から高く評価されるか ── どうしたら褒められ、テレヴィなどに出演でき、尊敬され、金儲けができるか ── ということしか考えてこなかったんでしょう。だから、現在も高村薫などにコバンザメ的に擦り寄ることが大事なんです。そのとき、ドストエフスキーなんかただの商売道具です。 ここで、またべつの作家のことばを引用しておきます。
これが「作品に奉仕する」小説家のことばです。最先端=亀山郁夫は保坂和志の爪の垢を煎じて飲んだらいいと思います。
ほら、「でも、読者は自分自身の経験と物語とを照らし合わせながら読んでいきますよね」ですって。来た、来た。 どうですか? これほどまでに噛み合わない対談があるでしょうか? 一方の高村薫は作家(実作者)としての自分が「欠如」、「空っぽ」であり、自作の登場人物は作家自身とは関係がない、登場人物は創造されたものだ、といっているんです。他方、最先端=亀山郁夫は、それを聞きながら、その意味をまったく理解せず、作品の登場人物があくまで作家自身の体験からしか出てこないとしかいっていないんです。これ、彼お得意の、でたらめな「自伝層」のことですよね。
ほらほら、これを思い出しますね。
そんな読みかたしかできない最先端につきあわされた高村薫の困惑はいかばかりだったでしょう。最先端=亀山郁夫は、高村薫も「現実に、何がしかの「踏み越え」を経験している」というんですか?「つまり具体的な犯罪」、「一線を超える経験」を? やれやれ。 |